親鸞聖人

誕生
 
平安時代の末期、承安3(1172)年に日野(あり)(のり)の長男として誕生。
この時代は、日本が古代から中世へ転換する時代で、親鸞誕生の十数年前には保元・平治の乱が起こり、日本の政治が、貴族を中心とする体制から武士を中心とする体制へと移り変わっていく激動の時代であった。
 
出家
 
治承5(1181)年、親鸞9歳の春、伯父の日野(のり)(つな)にともなわれ、青蓮院の慈円のもとで出家得度したと伝えられている。
僧名を
範宴(はんねん)と名のり、修道の第一歩を踏み出した。
比叡山延暦寺に身をおき、向上の志願ともいうべき道心に身を託し、20年間ひたすら「生死出ずべきみち」を求めて修行する日々を送った。
 
下山
 
比叡山での20年間の修道のあゆみの中で、親鸞に見えてきたものは、人間の煩悩の底知れない深さと、煩悩の大河に押し流されてしまう人間の弱さとであった。
どうにもならない深い苦悶のなかで親鸞は、この凡夫の身が真に救われることを願いつつ、比叡山を下り、天台の学問に決別したのである。
 
夢告
 
比叡山を下りた親鸞は、凡夫の身の救われる真実の教えを求めて、洛中(らくちゅう)の六角堂に身をはこび、百日にわたる参籠(さんろう)に入った。
親鸞がこの六角堂を参籠の場所と選んだのは、聖徳太子への深い憶いに促されたからにほかならない。
六角堂は、聖徳太子の建立と伝えられており、太子のことばを聞くのに最もふさわしい精舎であったのである。
そして、この参籠のなかで親鸞は、太子のことばを夢告として聞き取り、それに促されて吉水の法然の門をたたいたのである。
ときに親鸞29歳であった。

回心(えしん)

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吉水を訪れた親鸞が出遇ったのは、「智慧第一の法然房」と呼ばれて、人々から高い尊敬を受けていたにもかかわらず、自らは常に「愚痴の法然房」と称していた法然房源空であった。
その法然から聞くことができたのは、「ただ念仏せよ」と、一筋に「生死出ずべきみち」を語る単純明快な教えであった。
親鸞は、この法然の説く本願の念仏こそ、わが身自身を本当に知らせてくれる真実の教えであり、たくましく生かしめる力を与えてくれるものであると直感し、その直感に励まされて、ひたむきに法然の教えを聞いていった。
この聞法をとおして親鸞は、「ただ念仏」する者となり、光のなかに生きる身となったのである。
ここに、29年の生涯を一転せしめる回心を、親鸞は体験したのである。
親鸞は後年、この確かな出遇いの感動を、
しかるに愚禿(ぐとく)釈の鸞、建仁(かのと)の酉の暦、雑行を()てて本願に帰す
と、はっきりと記し残している。
ここに「本願に帰す」と言いきったことは、法然との出遇いが、その人との出遇いにとどまらず、法然をも生かしている如来の本願との出遇いにほかならなかったことを表明するものであった。
 
法難
 
吉水教団が急速に興隆したことは、南都・北嶺を中心とする伝統仏教を刺激し、やがて国家の秩序を乱すものとして、法然の仏教運動への迫害と弾圧という事態を引き起こすこととなった。
延暦寺の僧らは念仏の禁止を訴え、南都の奈良・興福寺も、法然や弟子らの罪をかぞえあげて、処罰するよう朝廷に強く迫ったのである。
そして、法然の門弟が催した念仏集会に、御所の女官らが加わったことが後鳥羽上皇の怒りをよび、これが直接の契機となって、ついに、専修念仏停止が決定され、法然およびその門下の数人が、死罪あるいは流罪に処せられたのである。(承元の法難)
この法難によって吉水教団は事実上崩壊し、それ以後、親鸞は法然と再び会うことはできなかった。
 
流罪
 
この法難で、親鸞は越後に流罪となった。35歳のことである。
親鸞は激しい憤りを感じながらも、配流の地、越後の国府(現新潟県上越市)に赴いた。
その地でひとりの流人として生活した5年間は、過酷な日々の連続であったに違いない。
自分の背丈を越すほどの雪との闘い、そして大地を耕して生命をつなぐという生活のなかで、師法然よりいただいた「ただ念仏」の教えに生きることは、決して容易なことではなかった。
しかし翻ってみれば、この流罪は、親鸞の信心が苦難の生活のなかで確かめられ鍛えられて、本願念仏の一道がより確かなものとして証しされていく、試練と純化の時期でもあったのである。
 
愚禿の名のり
 
親鸞は、承元の法難によって僧の資格を奪われた。
しかし、国家の名において認否されるような僧であることを親鸞は放棄し、「すでに僧にあらず、俗にあらず」と言い切り、「愚禿釈親鸞」と名のった。
それは国家によって僧とされたり俗とされるような在り方とは違う、本願に帰することにおいて真の仏弟子として生きることのできる確信をあらわしたものであるといえる。
「愚禿」とは、業縁のなかに生きるものとしての人間の愚かさを、徹底して知った自覚の表明である。
また、「釈」とは、愚禿の身のままに、釈尊の弟子として生きる世界を見開いた歓びと謝念をあらわした名のりであった。
 
関東での教化
 
やがて親鸞は、妻子とともに関東の地へと旅立った。42歳のことである。
上野(こうずけ)(群馬県)から武蔵(東京都・埼玉県と神奈川県の一部)を経て常陸(茨城県)に入り、稲田の地に草庵を結んで教化に専念していった。
それは「ただ念仏」の教えを自ら信じ人々と共に生きる、自信教人信のひたむきな生活であった。
しかし、このような親鸞の教化は、当然、その土地に古くから根付いていた宗教との軋轢も生んだ。
以後、関東在住の約20年間、親鸞の教化は常陸を中心に下総(千葉県北部と茨城県の一部)・下野(しもつけ)(栃木県)の三国におよび、教えを受けた人は数千人にも達したであろうと考えられている。
親鸞はそれらの人々と、共に念仏に生きる「同朋」として、ねんごろに交わりながら信心を語りあい、如来の恩徳を讃嘆していったのである。
 
帰洛
 
60歳を越えたころ、親鸞は関東の同朋たちをあとに、住み慣れた土地を離れて京都に向かって旅立った。
すでに老境にあった親鸞に帰洛を促したものは何であるか。
その理由についてはなにも伝えられていないが、関東時代から書き進めていた著書『(けん)浄土真実教行証文類(もんるい)』を完成し、世に公開することにあったのではないかと考えられている。
 
入滅(にゅうめつ)
 
弘長2(1262)年、11月下旬のころから親鸞は病に臥し、同28日、ついに90年の生涯を閉じた。
しかし、本願念仏に生きた親鸞のいのちは、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今なお生き続け、無数の念仏者を生みだし続けている。