スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

平成29年報恩講 法話ダイジェスト

本年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきお話しいただきました。

その中の一部を編集し紹介いたします。


私の夫でもある西教寺の住職が今年8月に「いのちの世界(お浄土)」に還っていきました。亡くなったのが夏休み中の8月でしたので預かり保育の子供たちと一緒に「お誕生」の歌を歌いました。

 

お誕生」

理事長先生のお誕生

天上天下唯我独尊

あなたはあなたで

すばらしい

私は私ですばらしい

生まれてきたこと

おめでとう

 

※理事長先生とは亡くなった住職のことです。普段はその部分を子供の名前に変えて、お誕生日の歌として歌っています。

 

 

亡くなるということは、生まれてきたということでもあります。住職も大事な「いのち」を受け、たくさんの人たちとの関わりがあってその中で色々なことを教わってきました。

では、「いのち」とはいったい何なのでしょう。自分のいのち、という言葉を時々聞くことがありますが「いのち」と「自分」は別物です。

「自分」というのは私たちが頭で考えたものです。生まれてこの方色々なことを経験し良くも悪くも作られてきたものです。

それに対し「いのち」とは、どんな時でも一生懸命生きようとする。たとえ私が「もう生きていたくない」と思っても一生懸命生きようとします。「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と願い続けているはたらきです。

また、「いのち」とは多くのご先祖からつながってきたものです。人は亡くなったら「いのちの世界(お浄土)」へと還ります。それは亡くなったら仏さまとなり、いのちの世界から「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と私たちに願い続けるはたらきになるということです。例え独りぼっちだと私が思っても、たくさんの仏さまが私を応援してくれています。それが「いのち」なのです。


住職は亡くなる三日前に「人生、面白かった」「真剣だった」と細い息に力を込めて言いました。

その言葉を後で振り返った時に

「私は死ぬときにああすれば良かった。こうすれば良かった。と思うのだろうな。どうすれば思わないのかな。」と思いました。亡くなってなお私に生きる問いを与えてくれます。自らの死をもって真剣に生きることを考える場を与えてくれました。それを「仏のはたらき」と真宗ではいいます。

私たちは「真剣に取り組む」(住職の「真剣だった」の言葉を受けて)というと、「結果、何を成し遂げたのか」につなげたくなりますが、これは「何をしたか」ではなく、「何を考え、どう生きるか」ということです。

住職は「何を考え、どう生きるか」ということを仏教に聞きたずねながら生きたのだろうと思います。だからこそ、真剣だったと言えたのでしょう。自分のやらなければいけないことを決して自分の都合ではなく仏教の教えをもとに取り組んでいく。そういう大事なことを教えていただきました。

「自分はこう生きたが、あなたは、どうなんだ…」という大事な問いが私に残されました。

 

 

ダイジェスト担当 佐々木健太

スポンサーサイト
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。