法話の時間

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平成27年11月8日 法話:住職

報恩講

報恩講

平成27年 報恩講

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平成27年10月18日 報恩講が厳修されました。

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法話は靍見美智子師
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今年は最後に祖師前での焼香がありました。

平成27年 おみがき・本堂清掃

平成27年10月9日
おみがき・本堂清掃が行われました。多くの方にご奉仕ご参加いただきました。
ありがとうございました。

≪水洗い・薬洗い≫
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≪布でおみがき≫
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≪終了後、正信偈勤行≫
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この後、本堂(内陣・外陣)の清掃をしていただき、ピカピカになりました。
今年も報恩講を迎える準備が整ってきました。

皆さんお疲れさまでした。ありがとうございました。

平成27年 秋季彼岸会 法話ダイジェスト

お彼岸をお迎えするということは、お彼岸の心に出会わせていただくということです。
「彼岸」という言葉にはどういう想いが込められているのか。その願いを聞いて参りましょう。

「彼岸」は「浄土」とも言い表すことができます。またそこは「安心」の世界です。
私自身が「浄土に生まれたい」「安心に包まれて生きていきたい」と願うことが、彼岸の心に出会うことだと言えるでしょう。
さて、では私たちは「浄土に生まれたい」と願っているでしょうか。
もちろん、愛する故人を想う時、また心の安らぎを求める時などは、無意識のうちに浄土を願っている、と言えるわけですが、しかしハッキリと意識して「そのために生きている」とはなかなか言えません。
それは何故かというと、私たちには「自分は迷っている」という自覚がないからです。

「彼岸」に対して「此岸」という言葉があります。
「浄土」に対するならば「穢土」。
また、それは「安心」の世界に対して「迷い」の世界であると言えます。
自分が、穢土に居ることがわかっていれば。また、迷っている存在であることの頷きがあれば。自ずと浄土をのぞみ、安心を求める心も起こってくるはずです。
何事もそうですが、「道に迷った」という自覚があるから地図を開くのです。
「下手くそだ」という自覚があるから、上手な人に教えを請うのです。

私たちが浄土に生まれたいと願っていないということはつまり、私たちは自分が迷っている、心が穢れているということがわかっていないということが言えるわけです。
それを仏教では、「無明」といって、最も根本的な愚かさであると指摘しています。

自分は分かっていないのだ、ということさえ自覚できれば道は自ずと開かれます。
しかしその自覚がないということは、全部わかったつもりになっているわけですから、自分はどこまでも正しいわけです。
反省もしません。わかろうともしません。
とにかく自分が正しいから、間違っているのはお前だ、と自分の意見を強行に押し付ける。押し通す。結果、強行突破、強行採決ということになってしまうのです。

私たちは自分が正しいと思い込み、グルグルと迷い続けていることにも気付かず、間違っているのはお前だ、と意見を押し通して、人を傷つけています。
教えを聞く時、また何かのきっかけを縁として、そんな情けない自分を知らされるとき、「この迷いから離れていきたい」「こんな自分をなんとかしていきたい」というこころが起きてくる。それは新しい歩みが生まれると言ってもいい。
それが「浄土を想う」ということであり、「彼岸の心に出会う」ということなのだと思います。
「彼岸」は、いのちのふるさとでありながら、常に新しく歩み始めることのできる出発点でもあるのです。

三島法遵