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平成26年 はなまつり 法話ダイジェスト

今回のはなまつりの法話は、鶴見区智廣寺の御住職、橋本正博師です。
テーマ「いのち尊ぶべし」
 
お釈迦様がお生まれになった時、「天上天下唯我独尊」と言われたというお話があります。
世界中で、ただ我一人として尊しという意味です。
世界中で自分が一番偉いということではないのです。
よくよく考えてみれば、世界中でただ私は誰とも比較をしなくて、誰とも比べることなくて、たった一人の掛け替えのない尊い存在だということに気が付いたということです。
生まれたときに赤ちゃんがそんなこと言うはずがないという人もいますが、それが事実かどうかよりも、生まれた時の言葉として残っているということは、これが仏教の基本だと捉えるべきです。
一人ひとりが掛け替えのない尊い存在であるということ、そこから仏教が始まるということです。
つまり掛け替えなく尊いというのは、平等ということです。
平等であり、比較をしなくて良いということです。
私たちは基本的に、比べることがない、比べることが出来ない存在であるということです。
ですが、現実の私たちはどうかというと、すぐに誰かと比較をしたり比べたりしますね。
誰かと比べて一喜一憂しています。
私も肉体的なことはどんどん衰えてきます。
反対に今日お祝いをしたお誕生児の子供たちは、これからどんどん伸びてきます。
それは事実です。
ですが、子供たちの成長が良いことで、私たちの衰えは悪いことであるというわけではありません。
駄目だったら、死ぬしかないのです。
だから私たちの存在は、良いとか悪いとかを考えるところから超えているのです。
私たちは自分の思いで良いとか悪いとかを決めますが、そういったところを超えている尊い存在なのだということです。
 
仏教では「無等尊」という言葉もあります。
等しくないけれど尊い、同じではないけど尊いということです。
みな違いはありますが、本質とか原点は等しく尊いということです。
見た目や環境は人それぞれですが、人間として生まれてきた。
そういう原点は同じだということです。
ですが現代の考え方では、命の物化や数量化がどんどん進んでいます。
人間の材料化、人材という言葉もあるくらいです。
自分にとって如何に役立つか、立たないかというところで人間を見ていくのです。
そして自分と他人を比べるだけでなく、自分の過去と現在を比べて悲観したりもします。
そういった比較をすることを、仏教では「慢」と言います。
自分と何かを比較することによって、本来公のものであるいのちを、私有化して生きているのです。
それが私たちの今の生き方かもしれません。
 
『正信偈』の中に「帰命無量寿()如来」という一句があります。
この「寿」は、「いのち」ということですが、色々な繋がりをもった「いのち」ということです。
「いのち」という言葉には、色々な漢字が当てられます。
そしてその漢字によって、意味合いが少しずつ違います。
普通使われる「命」、これは使命や命令という意味があります。
しなければならないことを持っているということです。
さらに今は「生命」という字もあります。
これはいのちを客観的に見ている、科学的な感じです。
いのちを物や量として捉えています。
それでもう一つが「寿」です。
全てに繋がっているいのちという意味です。
 
それで、お釈迦様のお覚りの内容ですが、それはたった一言で言うと縁起ということです。
全てのものは縁に依って起こる。
例えば、お仏壇にお飾りしますお花は、最初から花として生まれてきたわけではありません。
まず、種があるはずです。
そして、種があるというだけでは、花が咲くことはありません。
土や水、空気が必要ですね。
つまり、種が花を咲かすのではなく、縁が花を咲かせているのですよ。
それと同じように私たち人間も、着る物、食べる物、住む場所、衣食住がないと生きていけません。
これらを全て自分一人で作っている人はいるのでしょうか。
一つも私は作った物はありません。
全部他の人が作ってくださった物であります。
そこに繋がりがあるのです。
様々な人たちが、私を支えてくださっている。
そういうご縁で、私たちは生きてこられたのです。
お釈迦様のお覚りである縁起とは、物事は単独で有るのではなく、全ては繋がっているということです。
先ほどの「寿」と同じですね。
 
お釈迦様が誕生の際に言われたという「天上天下唯我独尊」は、私たち一人ひとりが掛け替えのない尊い存在であるということを教えてくださっています。
ですが、私たちは日々の生活の中で自分を中心に物事を考えてしまいがちです。
それは自分が様々な縁と繋がっていることを忘れさせてしまいます。
しかし、私たちは様々なご縁が繋がっていて、今ここにいるのです。
様々な縁が繋がっているからこそ、一人ひとりが一人として尊いのです。
 
担当:工藤
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平成26年 春季彼岸会 法話ダイジェスト

 2014年春季彼岸会    法話:三島法遵
 
本日はお彼岸です。
お彼岸は、昼と夜の長さが同じ、平等になる日です。
そしてお釈迦様の教えも、全ての命は平等で尊いのであるということを教えてくださっています。
平等ということをご縁にお釈迦様のお話を聞こうということが、お彼岸の中味であります。
 
仏教とは仏の教えと書き、仏に成る教えと言われています。
成仏とも言いますが、亡くなった人が仏になっていくだけではなく、私たち一人ひとりが仏になっていくということが基本にあります。
しかし修業をして覚りを開いていくということや死んだら仏に成るということでは決してありません。
その勘違いを避けるために「仏に成る教えと言うよりも、仏に遇う教えなのだ」と言ってくださった先生がいらっしゃいます。
 
では、仏に遇うとは一体どういうことなのか。
決して仏像と対面するということが出遇うということではありません。
仏とは、お念仏を申させるはたらき、願いのことを言います。
願いそのものを仏と呼ぶわけです。
私たちは、自分の欲望のことも願いと言ったりしますが、勿論そういう願いとは別のことです。
仏の願いを「誓願」と言いますが、「あなたのことを決して見捨てませんよ」という()いと、「どうかこの私の思いに気付いて欲しい」という()いのことです。
しかし、私たちはその「決して見捨てない」という誓いを感じながら、生活をしていません。
常に願われているにも関わらず、なかなか気付くことが出来ません。
だから、願いを形に表したのです。
その願いに「阿弥陀仏」と名付けて、形にしたものが、阿弥陀如来です。
ですから阿弥陀如来とは、「願い」そのものなのです。
 
願いがなければ、木像は仏像ではなく、ただの木です。
願いを私たちが聞き取るということがあって、初めて木像は仏像となるのです。
そして、私たちがその仏の願いに気付いたなら、お念仏を申してくださいと教えられています。
だから、私たちはその願いを聞いたところに、初めてお念仏が出てくるのです。
お内仏でもお寺でも、私たちは手を合わせてお念仏しますが、願いを聞くということをなしに習慣で行っていたのでは仏にはならないのです。
願いを聞きとり、「私は一人ではない、見捨てられていないのだ」と感得するところに、おのずと手が合わさり、口から南無阿弥陀仏が出てくるのです。
 
お経の中に、「(いっ)(さい)(しゅ)(じょう)(しつ)()(ぶっ)(しょう)」という言葉が出てきます。
いのちある全てのものは、悉く仏に成る(たね)を持っているという言葉です。
この言葉は他でもなく私自身が、仏になっていく性を持って生きているのだということですが、それは同時に私の周りのもの全て、それは人間だけでなく、山や川、草や木、動物や虫も、願いを持って生きているということです。
ですが願いに気付かなければ、「仏」とはいえない。
だから、仏に成る()と言っているのです。
仏に成るか、成らないかは、そのものの願いを聞き取ることが出来るか、出来ないかです。
仏に遇う教えといっても、「どこに行けば会えるのだ?」ではありません。
仏はどこにでもいるし、どこにもいない。
気付けば全てのものが仏だったのだと分かるのです。
ですから、自分にとって都合の良いことも、悪いことも、仏になっていく可能性があるのだということです。
 
例えば私たちは、日々の生活を送る中で、様々な事件や事故のニュースを聞きます。
その時、皆さんは何を思いますか。
恐ろしいことをする奴がいるなぁと思いますか。
自分も事件や事故に遭わないように、気を付けなければならないなぁと思いますか。
つまり、被害者側の立場に立ってのみ、ニュースを見てはいないでしょうか。
確かに、自分がもしかしたら事件や事故を起こす加害者側になるかもしれないとは、中々思えないものです。
それは、自分は絶対にそんなことはしないという自信を持っているからです。
遊林寺のオリジナルカレンダーの三月に、『「自分に限って○○するはずがない」という過信ほど怖いものはない』という法語があります。
自分は大丈夫、と過信しているため、被害者側にしか立てないのです。
親鸞聖人は、「私の心が良くて人を(あや)めないのではないのです。どれだけ人を傷つけたくないと思っても、縁次第では何人もの人を危めてしまうことだってあるのです。ただ、そういう縁が、今のところ無いというだけなのです。」と言われています。
この言葉は、いわば加害者側に立った言葉です。
「あなたも縁次第では…」と、事件が私に教えてくれているのではないでしょうか。
それをもって、事件や加害者が、私にとって仏と成っていくのです。
そうでなければ、恐ろしい人だなで終わってしまうのです。
自分も人を傷つけてしまうかもしれないという、そういう自覚に立たせていただくことが大事なのです。
 
有りとあらゆるものが仏と成る可能性があるという「一切衆生悉有仏性」という言葉の中には、いうまでもなく、「私」も含まれています。
私が、私自身に願い掛けられているということです。
「あなたのことを決して見捨てませんよ。」「あなたは決して独りぼっちではありませんよ。」という、その私自身の願いを聞いて、私が念仏申していく。
有りとあらゆるものを仏として出遇っていくのと同じように、私という仏と出遇い、私自身が仏になっていく道があると教えてくださっている。
それが仏教ではないでしょうか。

担当:工藤

平成26年 はなまつり

平成26年4月6日 遊林寺はなまつりが行われました。


予定していた稚児行列は残念ながら雨のため中止になりましたが、
悪天候の中多くの方にお参りいただき、賑々しく厳修されました。

以下、はなまつりの様子です。

甘茶のふるまい
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はなまつり法要
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お誕生児お祝い
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グレッシーでは3周年を記念して職人さんによるお寿司が振る舞われました。
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平成26年 春季彼岸会

平成26年3月23日 

春季彼岸会が厳修されました。

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勤行後、三島法遵(遊林寺副住職)がお話させていただきました。

仏教入門精舎「聞」

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平成26年3月14日

第28回佛教入門精舎「聞」が開かれました。

2月 境内の様子

今はもう春になっていまいましたが、2月の境内の様子です。
大雪もあり、境内もすっかり雪景色になりました。

梅 
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2月9日
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特別聞法会「歎異抄」

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平成26年2月23日

特別聞法会「歎異抄」が開かれました。

仏教入門精舎「聞」


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平成26年1月17日

第27回佛教入門精舎「聞」が開かれました。
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