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線香

まずご本尊を仰ぎ見る。
次に線香を1本手に取り、香炉の大きさに合わせて折る。
火を点じ、香炉の中に寝かせ置く。
その後、合掌
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焼香

まずご本尊を仰ぎ見る。
次に念珠を持ったままの左手を卓の前端、香炉の左側にかけ、右手で、香を2撮、香炉の中に投じ、香合の中の香の乱れを指先で直す。
その後、合掌

合掌

まずご本尊を仰ぎ見る。
次に念珠を持った左手を胸部にあげ、右手を静かに左手の念珠の輪に通して合掌する。
合掌したときは、肘を張らず、10本の指と掌は離れたり浮かしたりせずに正しく揃え、合わせた掌が胸の前辺りにくるようにする。掌の角度は約45度に保ち、両手に無理な力をいれず常に自然であるように心得る。
「南無阿弥陀仏」と口に称え(十遍ほど)、ゆっくりと合掌を解き、軽く頭礼する。

自己紹介

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  住職
  氏名:本保 淳
  法名:釋淳照
  出身:神奈川県横浜市





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  副住職
  氏名:三島 法遵
  法名:釋法遵
  出身:岐阜県高山市





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  法務員
  氏名:佐々木 健太
  法名:釋顕大
  出身:神奈川県横浜市





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  法務員(非常勤)
  氏名:神崎 敏彦
  法名:釋敏往
  出身:神奈川県横浜市





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  準坊守
  氏名:三島 恵美里
  出身:岐阜県下呂市





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  電話総合受付
  氏名:臼井 三枝
  法名:釋尼至凛
  出身:神奈川県横浜市


お朝事

お朝事

脇掛

脇掛

本尊

御本尊とは、人生において「本当に尊い」ことであり、真の依り処であります。
 
浄土真宗の御本尊は阿弥陀如来(南無阿弥陀仏)です。
この御本尊は木像、絵像、六字名号など様々な形があります。
 
阿弥陀とはインドのサンスクリット語でAmitayus(アミターユス)とAmitabha(アミターバ)という言葉の音写です。アミターユスは無量寿(無限の寿命)、アミターバは無量光(無限の光明)という意味で、無量寿は時間、無量光は空間を表しております。
阿弥陀仏はあらゆる時間・空間を越えて、私たちを一人も漏らさずに救いたいと願われているのです。
 
この阿弥陀とは、元々物事の真理や真実(真如)といった形の無いもの(法性法身)であります。しかし、それを形に表して、教えを説くための方便としてのお姿(方便法身)が阿弥陀仏なのです。
親鸞聖人は法性法身について、「いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と述べております。
これは「本来、阿弥陀仏とは私たちの認識を超越した存在であり、色や形は無く、想像や言葉では表現できない存在である」という意味です。
そして方便法身を「この一如(法性法身)よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘と名のりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたち」(『唯信鈔文意』)と述べております。
これは「この私たちの認識を超越した存在から、私たちが認識出来る為のお姿として、法蔵比丘と名乗り、我々の為に四十八願を建てられて、現れたお姿である」という意味です。
 
皆さんのご自宅のお内仏に安置されております御本尊は、法性法身としての阿弥陀仏が、方便法身として、我々の前に現れたものです。
お内仏というのは浄土の世界を表しており、お内仏に御本尊がなければ、それはただの箱となってしまいます。
私たちは、その浄土の阿弥陀仏に対して手を合わせ、「南無阿弥陀仏」と念仏します。
それは私たちを救いたいと願われた阿弥陀仏に対して、「あなたの教えを信じて、帰依(心から従う)します」ということです。
なので、御本尊は偶像崇拝するための物ではありませんし、ましてやお願いごとをする為の、御祈りの対象でもありません。
この阿弥陀仏の教えを信じて帰依するということが、人生において「本当に尊い」ことであり、真の依り処なのです。 

大谷祖廟納骨

大谷()(びょう)納骨
 
親鸞聖人の墳墓の地である「大谷祖廟」に遺骨を納めることができる。
「大谷祖廟」には、親鸞聖人をはじめ、蓮如上人や、本願寺歴代の御遺骨が納められている。
 
詳しくはコチラ

真宗十派

真宗十派

東本願寺(真宗本廟)

東本願寺(真宗(ほん)(びょう)
 
「東本願寺」を通称とし、正式には「真宗本廟」という。
真宗本廟は、宗祖親鸞聖人の御真影を安置する御影堂及び阿弥陀堂を中心とした、真宗大谷派の唯一の本山であり、崇敬の中心、教法宣布の根本道場である。
 
詳しくはコチラ

東西分派

東西分派

不回向

不回向

供養のこころえ

供養のこころえ

法事

法事

葬儀の流れ

葬儀の流れ

葬儀とは

葬儀とは

南無阿弥陀仏の語源

南無阿弥陀仏の語源

仏旗

仏旗

法輪

法輪

蓮如上人

蓮如
 
1415(応永22)年~1499(明応8)年。
浄土真宗中興の祖。
衰微(すいび)していた本願寺に在って苦難の中に成長し、父(本願寺七世存如(ぞんにょ))に従って、教化に尽くした。
1457(長禄1)年、父の後を継いで本願寺八世となる。
浄土真宗の伝統に立って改革を行ったため、比叡山衆徒による大谷本願寺の破却にあい、大津三井寺の南別所を経て、1471(文明3)年、越前(福井県)の吉崎に坊舎を建てて移住(吉崎御坊)。
数多くの『御文』を作成し、親鸞の『正信偈』や『和讃』を開版するなど、活発な教化活動を行った。
しかし、その教化を受けた門徒と在地領主との間に生じた利害関係の対立によって吉崎を出、新たに摂津・河内・和泉(大阪地方)で布教に専念。
1480(文明12)年、山城(京都府)の山科(やましな)に山科本願寺を再建。教化はいっそう拡がり、他派より帰依するものも多かった。
75歳で五男の実如(じつにょ)に後を譲り隠居したが、その後も布教を続け、1496(明応5)年には大坂石山に石山本願寺を建立するなど、その活動は85歳で没するまで続いた。
  

親鸞聖人

誕生
 
平安時代の末期、承安3(1172)年に日野(あり)(のり)の長男として誕生。
この時代は、日本が古代から中世へ転換する時代で、親鸞誕生の十数年前には保元・平治の乱が起こり、日本の政治が、貴族を中心とする体制から武士を中心とする体制へと移り変わっていく激動の時代であった。
 
出家
 
治承5(1181)年、親鸞9歳の春、伯父の日野(のり)(つな)にともなわれ、青蓮院の慈円のもとで出家得度したと伝えられている。
僧名を
範宴(はんねん)と名のり、修道の第一歩を踏み出した。
比叡山延暦寺に身をおき、向上の志願ともいうべき道心に身を託し、20年間ひたすら「生死出ずべきみち」を求めて修行する日々を送った。
 
下山
 
比叡山での20年間の修道のあゆみの中で、親鸞に見えてきたものは、人間の煩悩の底知れない深さと、煩悩の大河に押し流されてしまう人間の弱さとであった。
どうにもならない深い苦悶のなかで親鸞は、この凡夫の身が真に救われることを願いつつ、比叡山を下り、天台の学問に決別したのである。
 
夢告
 
比叡山を下りた親鸞は、凡夫の身の救われる真実の教えを求めて、洛中(らくちゅう)の六角堂に身をはこび、百日にわたる参籠(さんろう)に入った。
親鸞がこの六角堂を参籠の場所と選んだのは、聖徳太子への深い憶いに促されたからにほかならない。
六角堂は、聖徳太子の建立と伝えられており、太子のことばを聞くのに最もふさわしい精舎であったのである。
そして、この参籠のなかで親鸞は、太子のことばを夢告として聞き取り、それに促されて吉水の法然の門をたたいたのである。
ときに親鸞29歳であった。

回心(えしん)

(
)
吉水を訪れた親鸞が出遇ったのは、「智慧第一の法然房」と呼ばれて、人々から高い尊敬を受けていたにもかかわらず、自らは常に「愚痴の法然房」と称していた法然房源空であった。
その法然から聞くことができたのは、「ただ念仏せよ」と、一筋に「生死出ずべきみち」を語る単純明快な教えであった。
親鸞は、この法然の説く本願の念仏こそ、わが身自身を本当に知らせてくれる真実の教えであり、たくましく生かしめる力を与えてくれるものであると直感し、その直感に励まされて、ひたむきに法然の教えを聞いていった。
この聞法をとおして親鸞は、「ただ念仏」する者となり、光のなかに生きる身となったのである。
ここに、29年の生涯を一転せしめる回心を、親鸞は体験したのである。
親鸞は後年、この確かな出遇いの感動を、
しかるに愚禿(ぐとく)釈の鸞、建仁(かのと)の酉の暦、雑行を()てて本願に帰す
と、はっきりと記し残している。
ここに「本願に帰す」と言いきったことは、法然との出遇いが、その人との出遇いにとどまらず、法然をも生かしている如来の本願との出遇いにほかならなかったことを表明するものであった。
 
法難
 
吉水教団が急速に興隆したことは、南都・北嶺を中心とする伝統仏教を刺激し、やがて国家の秩序を乱すものとして、法然の仏教運動への迫害と弾圧という事態を引き起こすこととなった。
延暦寺の僧らは念仏の禁止を訴え、南都の奈良・興福寺も、法然や弟子らの罪をかぞえあげて、処罰するよう朝廷に強く迫ったのである。
そして、法然の門弟が催した念仏集会に、御所の女官らが加わったことが後鳥羽上皇の怒りをよび、これが直接の契機となって、ついに、専修念仏停止が決定され、法然およびその門下の数人が、死罪あるいは流罪に処せられたのである。(承元の法難)
この法難によって吉水教団は事実上崩壊し、それ以後、親鸞は法然と再び会うことはできなかった。
 
流罪
 
この法難で、親鸞は越後に流罪となった。35歳のことである。
親鸞は激しい憤りを感じながらも、配流の地、越後の国府(現新潟県上越市)に赴いた。
その地でひとりの流人として生活した5年間は、過酷な日々の連続であったに違いない。
自分の背丈を越すほどの雪との闘い、そして大地を耕して生命をつなぐという生活のなかで、師法然よりいただいた「ただ念仏」の教えに生きることは、決して容易なことではなかった。
しかし翻ってみれば、この流罪は、親鸞の信心が苦難の生活のなかで確かめられ鍛えられて、本願念仏の一道がより確かなものとして証しされていく、試練と純化の時期でもあったのである。
 
愚禿の名のり
 
親鸞は、承元の法難によって僧の資格を奪われた。
しかし、国家の名において認否されるような僧であることを親鸞は放棄し、「すでに僧にあらず、俗にあらず」と言い切り、「愚禿釈親鸞」と名のった。
それは国家によって僧とされたり俗とされるような在り方とは違う、本願に帰することにおいて真の仏弟子として生きることのできる確信をあらわしたものであるといえる。
「愚禿」とは、業縁のなかに生きるものとしての人間の愚かさを、徹底して知った自覚の表明である。
また、「釈」とは、愚禿の身のままに、釈尊の弟子として生きる世界を見開いた歓びと謝念をあらわした名のりであった。
 
関東での教化
 
やがて親鸞は、妻子とともに関東の地へと旅立った。42歳のことである。
上野(こうずけ)(群馬県)から武蔵(東京都・埼玉県と神奈川県の一部)を経て常陸(茨城県)に入り、稲田の地に草庵を結んで教化に専念していった。
それは「ただ念仏」の教えを自ら信じ人々と共に生きる、自信教人信のひたむきな生活であった。
しかし、このような親鸞の教化は、当然、その土地に古くから根付いていた宗教との軋轢も生んだ。
以後、関東在住の約20年間、親鸞の教化は常陸を中心に下総(千葉県北部と茨城県の一部)・下野(しもつけ)(栃木県)の三国におよび、教えを受けた人は数千人にも達したであろうと考えられている。
親鸞はそれらの人々と、共に念仏に生きる「同朋」として、ねんごろに交わりながら信心を語りあい、如来の恩徳を讃嘆していったのである。
 
帰洛
 
60歳を越えたころ、親鸞は関東の同朋たちをあとに、住み慣れた土地を離れて京都に向かって旅立った。
すでに老境にあった親鸞に帰洛を促したものは何であるか。
その理由についてはなにも伝えられていないが、関東時代から書き進めていた著書『(けん)浄土真実教行証文類(もんるい)』を完成し、世に公開することにあったのではないかと考えられている。
 
入滅(にゅうめつ)
 
弘長2(1262)年、11月下旬のころから親鸞は病に臥し、同28日、ついに90年の生涯を閉じた。
しかし、本願念仏に生きた親鸞のいのちは、如来大悲の恩徳を讃嘆した多くの言葉となって、今なお生き続け、無数の念仏者を生みだし続けている。
 
 

七高僧

七高僧
 
親鸞は、徹底して教主世尊の教えに信順し、本願名号に帰入して、そのいのちを明らかにした仏者七人を浄土真宗の祖師として選んだ。
それが、龍樹・天親(インド)、曇鸞・道綽・善導(中国)、源信・源空(日本)の七人である。
仏教史上にあらわれた多くの高僧たちのなかから、真宗の祖師として、とくにこの七人が選ばれた理由については、古来、三つのことがあげられている。
第一の理由は、それぞれに浄土の教えを讃仰(さんごう)した著書があり、それが広く読まれているということである。
この著書によってそれぞれの自覚内容を明らかに知ることができるからである。
第二の理由は、浄土の教えについて独自の領解があるということである。これによって七祖は、それぞれに真宗の豊かな内容を、たがいに照らし出しあうように明らかにしているのである。
第三の理由として、浄土の教えに帰して、本願を信じ、念仏するということにおいて一致していることがあげられている。
このように、信心を要とする浄土真宗は、七祖一人ひとりによってすでに明らかにされていた。
七祖は、ともに如来のまことの願いに帰して、真実の仏道を行じた仏者であり、自己一人の救われる道を本願の教えに見出し、真摯な態度をもってそれを生きた人たちであった。
親鸞は法然と出遇うことによって、法然の背景に本願の仏道の歴史を感得(かんとく)し、七祖の全人格をとおして如来の恩徳を仰いだのである。
  
龍樹(りゅうじゅ)(ナーガールジュナ)(150~250年頃)
 
南インドに生まれる。
青年時代、快楽の限りを尽くす生活を送っていたが、それが苦悩を生み出すもとであることを思い知らされ、出家して仏道に入った。
絶えざる求道によってその教学を確立し、「中道」をもって釈尊の精神を明らかにしている。
主著は『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)
 
天親(てんじん)(ヴァスバンドウ)(300~400年頃)
 
西北インド、ガンダーラ(現パキスタン)に生まれる。
世親ともいう。
小乗の教えに固執していたが、大乗の道理を、兄によって諄々(じゅんじゅん)と説かれ、煩悩をそのまま涅槃に転じようとする大乗の教えに帰した。
自我の執心の深いことを自覚し形成された天親の思想は、唯識教学とよばれている。
主著は『浄土論』(往生論)
  
曇鸞(どんらん)(476年~542年)
 
中国、五台山の近くに生まれる。
長生不死を願っていたが、はからずも菩提流支(るし)と出会ったことで、自分の迷執(めいしゅう)が破られ、改めて仏道の心に目覚めた。
外道に迷っているのが人間の現実であるが、その迷いにまともに向かいあって、そこから如来の願いに生きようとした人である。
主著は『浄土論註』
  
道綽(どうしゃく)(562年~645年)
 
中国、幷州汶水(現山西省)に生まれる。
玄中寺にて曇鸞の碑文を読み、深く信を発して浄土の教えに帰入した。
龍樹の「難行・易行」の二道、曇鸞の「自力・他力」の教判を受けて、一代仏教を「聖道門・浄土門」の二つにはっきりと分けた。
この決判は、真実の仏道の開顕であり、末法濁世に生きる人間としての深い自覚に立つ仏道の選びとなった。
主著は『安楽集』
 
善導(ぜんどう)(613年~681年)
 
中国に生まれる。道綽に出遇い、親しく『観経』の講説を聞き、経の深い意味を知って阿弥陀仏の本願に帰依した。
『観経』の三心、すなわち、至誠(しじょう)(しん)深心(じんしん)回向発願心(えこうほつがんしん)の教えを最も大切に聞き取り、それを注解して、この三心に往生のあゆみがあることを明らかにした。
主著は『観経疏』
 
源信(げんしん)(942年~1017年6月10日)
 
現奈良県の葛城市當麻(たいま)に生まれる。
7歳で父と死別し、13歳で出家。
濁世末代の凡夫の自覚に立てば、釈尊一代の教説も先師の論釈も、すべて帰するところ念仏一門の広開にあったと領解し、一切の人々が念仏の一門に帰すべきことを勧めた。
主著は『往生要集』
 
(げん)(くう)(ほう)(ねん))(1133年~1212年1月25日)
 
現岡山県の津山市に誕生。
父の遺言が縁となり出家。
親鸞が師と仰いだ法然は、仏道の要は「ただ念仏」にあるということを明らかにした。
念仏往生の願のこころを明らかにするにあたって、如来はなぜ念仏をもって往生の道とするのかという問題を提起し、これに答えることによって、仏の深いこころを開顕した。
主著は『選択本願念仏集』
 

釈尊

教主世尊
 
人間の救われていく道である阿弥陀仏の本願を人間のことばとして説き、教示した人であるがゆえに、真宗では釈尊を「教主」として仰ぐ。
またこの世において最も尊い人であるとして「世尊」と尊称する。
 
八相(はっそう)成道(じょうどう)
 
釈尊の生涯は、「八相成道」といって、八つの相であらわされている。
その第一相は「下天(げてん)」で、兜率天(とそつてん)におられた釈尊がこの世に下って来られることであり、その生命が摩耶(まや)夫人(ぶにん)の胎内に宿るのが、第二相の「(たく)(たい)」である。
そして第三相は「
出胎(しゅったい)」で、降誕ともいい、摩耶夫人の右の脇から生まれ、七歩を歩いて、「天上天下 唯我独尊」といわれたとされる。
そのとき多くの天人が釈尊の誕生を喜び祝ったということである。
(現在日本においては4月8日を「花まつり」と称し、釈尊の誕生を祝っている。)
第四相は「出家(しゅっけ)」である。
人間の能力も、財産・地位・名誉も、老・病・死を前にしたときには、なんら意味をもたず、色あせたものとしか感じられない事実に目覚めて、出家されるのである。
第五相は「降魔(ごうま)」といい、出家から6年間の苦行を経て、種々の悪魔と対決し、それを(くだ)す。
悪魔とは自らの迷いと怖れの投影であり、その悪魔との対決は自己とのたたかいである。
その悪魔が完全に降伏したとき、つまり、覚りを得られたときが「成道(じょうどう)」であって、これを第六相とする。
第七相は「転法輪(てんぼうりん)」である。
成道のあと、覚りの内容を人々に説くことをためらっていた釈尊に、世界の主である
梵天(ぼんてん)が熱心に説法を要請した(梵天勧請(かんじょう))といわれている。
やがて、それに応じてようやく説法に立たれた釈尊は、それ以後、80歳で入滅されるまで説法をつづけられた。
その入滅は「
涅槃(ねはん)」といい、第八相とされる。
この「八相成道」の教説には、単に釈尊の生涯を順に示したものではなく、それぞれの相をとおして法が説かれているのである。
 
出世本懐(ほんがい)
 
出世本懐ということは、なにを目的としてこの世に誕生したのかという自覚を意味する。
これについて親鸞は、「如来、世に興出したまうゆえは、ただ弥陀本願海を説かんとなり」と言いきり、本願念仏の教えを説くことこそが、釈尊の出世本懐であるとしている。
如来の本願を説く釈尊の教えにふれ、その教えに帰依して生きた人々は、本願に目覚めることによって、自己の出世本懐を見出してきたのである。
インド・中国・日本と伝承されてきた仏教は、時代と民族を越えて、本願によって貫かれている。
そして、この教主世尊の教えによって本願に帰した仏弟子の代表を、親鸞は三国に出世した七人の仏者に見出し、その七人を浄土真宗の祖師と仰いだのである。

歎異抄

歎異抄(たんにしょう)
 
親鸞聖人滅後の異端を(なげ)いた書物。(親鸞滅後二十年程して成立したものか。)
著者は、親鸞面授(めんじゅ)の弟子である(ゆい)(えん)とするのが定説となっている。
『歎異抄』は大きく分けて、三つの部分から成っている。
第一は「師訓篇(しくんへん)」と呼ばれ、信心を率直に語られた聖人の言葉が、十ヵ条にまとめられている。
第二は「歎異篇」と呼ばれ、著者が見聞して深い悲しみをおぼえた、聖人の仰せに背く見解が、八ヵ条、取り上げられ、批判されている。
そして第三は、ふつう「後序(ごじょ)」と呼ばれているが、その中には、「信心の同一性」や、「聖人の常の仰せ」など、『歎異抄』全体を貫くような、意味深い聖人の信心の吐露が記されている。
さらに、著者に動いた「歎異する心」が切々と記され、読む者に深い感銘を与える述懐(じゅっかい)となっている。
それでこの「後序」は、単なる「あとがき」ではなく、「述懐篇」として捉えるべきである。
 
※遊林寺「聞法会」では、この『歎異抄』をテキストとしています。

正信偈

正信偈
 
正式には「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といい、「正信偈」と略称される。親鸞聖人の主著『(けん)浄土真実教行証文類(もんるい)』「行巻(ぎょうのまき)」の末尾にある七言百二十句の偈文(げもん)
大別して二段から成っており、初めの段は、依経段(えきょうだん)といって、『大経』に明らかにされている本願を信じ、念仏を正信する道の広大なることを讃嘆している。
後段は、依釈段(えしゃくだん)といい、七高僧が教えた本願念仏についての解釈の要点を掲げて、その徳を讃嘆している。
親鸞聖人は知恩報徳(ちおんほうとく)の思いから、この偈頌(げじゅ)を制作したと述べている。
本願寺八世蓮如以来、朝夕の在家勤行にも広く読誦されている。

遊林寺同朋の勤行はコチラ

浄土三部経

浄土三部経
 
仏教は教えを(むね)とする人間の生き方を根本問題とするものであり、必ず依りどころとする経典をもつ。
浄土真宗にあっては、まさしく「浄土三部経」がそれであり、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の三経である。
この三部経の選びは親鸞によるものではなく、親鸞が「本師源空」と仰いだ法然によるものである。
この三部経は単に浄土を表現した経典を集めたものではなく、それぞれ独自の意義をもって、人々の往生浄土の願いに応えてきた経典である。
 
 
仏説無量寿経
 
『大無量寿経』または『大経』とよばれることもある。(「大」とは、「大いなる」「真実の」という意味)
親鸞は自身の主著『教行信証』に、
  それ、真実の教を(あらわ)さば、すなわち『大無量寿経』これなり
といい、三経の中でもとくに『仏説無量寿経』をもって根本教説としている。
『仏説無量寿経』は万人普遍の救いを成就すべき真実の法を開顕する経典である。
そこでは、万人を平等に救済する法は阿弥陀仏の本願であり、その本願のこころを具体的にあらわすのが南無阿弥陀仏の名号であると説かれている。
したがって『仏説無量寿経』は「法の真実」をあらわす経典である。
 
仏説観無量寿経
 
略して『観経』ともよばれる。
万人を平等に救済する本願の名号によって、まさに救われるべき人間を浮き彫りにした経典である。
そこに説かれている王舎城の悲劇のなかで、苦悩する凡夫の身をさらけ出した韋提希(いだいけ)は、
阿弥陀仏の本願に目覚めなくては生きることも死ぬこともできない人間そのものとしてあらわされている。
したがって、阿弥陀仏の本願名号によって救われるものを苦悩する凡夫として明らかにする『仏説観無量寿経』は、「機(人間)の真実」をあらわした経典なのである。
 
仏説阿弥陀経
 
略して『小経』ともよばれる。阿弥陀仏とその浄土の()(どく)(しょう)(ごん)を説き、その浄土に生まれる道として、ただ念仏の道を教え、この念仏の信心が十方の諸仏によって証誠(しょうじょう)され、念仏する人が護念されることを説いている。したがって『仏説阿弥陀経』は、苦悩の衆生(機)に、本願のこころ(法)があらわれる相を説いた経典である。

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