平成29年報恩講 法話ダイジェスト

本年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきお話しいただきました。

その中の一部を編集し紹介いたします。


私の夫でもある西教寺の住職が今年8月に「いのちの世界(お浄土)」に還っていきました。亡くなったのが夏休み中の8月でしたので預かり保育の子供たちと一緒に「お誕生」の歌を歌いました。

 

お誕生」

理事長先生のお誕生

天上天下唯我独尊

あなたはあなたで

すばらしい

私は私ですばらしい

生まれてきたこと

おめでとう

 

※理事長先生とは亡くなった住職のことです。普段はその部分を子供の名前に変えて、お誕生日の歌として歌っています。

 

 

亡くなるということは、生まれてきたということでもあります。住職も大事な「いのち」を受け、たくさんの人たちとの関わりがあってその中で色々なことを教わってきました。

では、「いのち」とはいったい何なのでしょう。自分のいのち、という言葉を時々聞くことがありますが「いのち」と「自分」は別物です。

「自分」というのは私たちが頭で考えたものです。生まれてこの方色々なことを経験し良くも悪くも作られてきたものです。

それに対し「いのち」とは、どんな時でも一生懸命生きようとする。たとえ私が「もう生きていたくない」と思っても一生懸命生きようとします。「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と願い続けているはたらきです。

また、「いのち」とは多くのご先祖からつながってきたものです。人は亡くなったら「いのちの世界(お浄土)」へと還ります。それは亡くなったら仏さまとなり、いのちの世界から「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と私たちに願い続けるはたらきになるということです。例え独りぼっちだと私が思っても、たくさんの仏さまが私を応援してくれています。それが「いのち」なのです。


住職は亡くなる三日前に「人生、面白かった」「真剣だった」と細い息に力を込めて言いました。

その言葉を後で振り返った時に

「私は死ぬときにああすれば良かった。こうすれば良かった。と思うのだろうな。どうすれば思わないのかな。」と思いました。亡くなってなお私に生きる問いを与えてくれます。自らの死をもって真剣に生きることを考える場を与えてくれました。それを「仏のはたらき」と真宗ではいいます。

私たちは「真剣に取り組む」(住職の「真剣だった」の言葉を受けて)というと、「結果、何を成し遂げたのか」につなげたくなりますが、これは「何をしたか」ではなく、「何を考え、どう生きるか」ということです。

住職は「何を考え、どう生きるか」ということを仏教に聞きたずねながら生きたのだろうと思います。だからこそ、真剣だったと言えたのでしょう。自分のやらなければいけないことを決して自分の都合ではなく仏教の教えをもとに取り組んでいく。そういう大事なことを教えていただきました。

「自分はこう生きたが、あなたは、どうなんだ…」という大事な問いが私に残されました。

 

 

ダイジェスト担当 佐々木健太

平成29年「はなまつり」法話ダイジェスト「人と生まれて」 法話 三島見らん師

数年前私の息子が「ことわざを調べる」という宿題を持ってきました。息子が私の妻に「何かないか」と聞くと妻は「はたらかざるもの食うべからず」と答え、後はお父さんに聞きなさいと答えました。

 今は何でもすぐに調べられる時代です。携帯。ネット。辞書。

しかしこれを息子が私に聞いている以上私の思いを言葉で伝えなくては私が答える意味がない。今ここにいる私がいる意味がない、そのように思い少し考えました。

人間として生まれて本当に大事なことは何か。食うということは命をいただいていること。私の命一つに多くの命が入っているということ。

本当の仕事というのは多くの命をこの身にいただいているということを喜んでいける道を見つけていくことではないかと思いましたのでそのように息子には伝えました。

 

お釈迦さまは生まれてすぐに七歩歩いたと伝えられています。そして一歩一歩歩いたところに花びらが咲いた。そしてこう言いました。

「天上天下唯我独尊」

この言葉はいつでもどこでも自分の命を尊いものとして歩んでいける道を私は見つけるんだということです。そしてそれを伝えていくんだということです。

しかしながら私たちの現実として尊い者として生きていけていない問題があります。社会に出たら揉まれる。色んな秤で量られる。使える人使えない人として評価されていきます。お互いがお互いを尊い者として生きていけない現実があります。

 

親鸞の母は

「私の菩提心を弔ってくれ」という言葉を臨終のときに親鸞に伝えました。

これはつまり「道を求めなさい」ということです。私の人生は「道を求め続けた人生でした」ということです。

しかし私たちの臨終のときに出てくる言葉はどうでしょうか。

「貯金通帳はあそこの棚に入っている」「頑張って勉強しなさい」「他人に迷惑をかけるな」こう言った言葉ではないでしょうか。

家庭での言葉が社会での言葉と一緒になってしまっているのではないでしょうか。外に出ても家に居ても同じことを言われる。それは悲しいと私は思います。

社会で朝から晩まで言われていることをまさか父母の臨終のときにまで言われたら家が家でなくなってしまいます。家という場所は親が今まで生きて来た道筋を伝えていく場所ではないかと思います。

「道を求めなさい」「自分の生きていく中心を探し求めなさい」と。

織物も一緒です。織物は縦と横の糸が一つになっているからばらばらになりません。横の糸である私たちも縦の糸が通っていなければばらばらになってしまいます。いろんな経験を積んできても縦に一本糸が通っていなければばらばらになってしまう。これはとても大事なことです。

 

私は大学時代にとてもいい先生に出会いました。

その先生に初めに言われた言葉が「あなたの願いは何ですか」でした。当時90歳ぐらいのおじいさん先生です。90年間生きてきた中の結晶の言葉、結晶の問いであると今では思います。

「あなたはどういう願いをもって20年間生きて来たのですか」と聞かれたのです。わずか数秒ですが自分の20年間の人生を振り返りました。しかし自分の中に「尊い」といえるような願いが何一つ、どこにもありませんでした。何となく生きてきて、何となく大学に行って、何となくここにいる。それが現実でした。その問いが今でもずっと心にこびりついて離れません。

 

賽の河原という場所が地獄にはあります。ここは親より先に亡くなった子供が行く地獄だと言われています。子供たちが石を積み上げていく、「石をこれだけ積んだよ」と子供が喜んでいると鬼がそれを蹴っ飛ばしてしまう。それが永遠と続いている場所です。「もっと高く積めたよ」というとまた蹴っ飛ばしてしまう。

実は賽の河原で石を蹴っ飛ばしてしまうのは私たち大人です。子供の社会を分かってあげられず「だからどうした」と。これを命濁(みょうじょく)といいます。いのちそのものが私たちの社会(大人の価値観、一人一人の価値観の押しつけ)によって汚れてしまっているということです。社会の眼でもって子供を見てしまう、相手を見てしまう。けれども社会の眼そのものが汚れている。濁ったいのちの人がまた濁ったいのちを育てていく。どんどん濁りが深まっていくということは地獄が深まるということです。

自分の経験、歩みが執着となり他人を縛り上げていく。私がこうだったのだからあなたもこうしなさい。こうしなければならない。時には愛情でもって自分の子供を縛り付けてしまう。

しかし相手を自由にするということは相手を信頼するということです。自分の子供に色々なアドバイスをしますがそれは子供を信じないということの表れなのかなとも思います。

 


今日の話のテーマが「人と生まれて」です。それは「あなたが人として生まれた意義を生涯尋ねていきなさい」ということです。親鸞聖人の母の遺言も同じことです。

どんなことがあっても縦の糸が一本通ってさえいれば大丈夫という縦の糸をしっかりと身にまとっていく。たった一本の糸、たった一つの道を仏教に依りながら確認し、生涯の課題としていっていただきたいと思います。


ダイジェスト担当 佐々木健太

 

平成28年 報恩講 法話ダイジェスト

今年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきました。長くお話しいただきましたが一部紹介いたします。

二つの詩を紹介していただきました。

 

「がんばれ」のうた      作 祖父江文宏

頑張れ 頑張れ 頑張れば何でも出来る

先生がそう言った 母さんがそう言った

頑張ったって 出来ないものは 出来ないけどさ

スーパーマンには なれないよ

ウルトラマンには なれないよ

でも頑張るより 仕方ない

ミミズはミミズの 頑張りかたで

ペンギンはペンギンの 頑張りかたで

軽い気持ちで やってみよう


この詩は祖父江先生が子供たちにおおらかに生きていってほしいと願いを込めて作った詩だと思います。先生も親も頑張りなさい!と言いますが実際にスーパーマンにはなれません。「あなたはあなたで良いんだよ」ということです。この言葉は阿弥陀経にも「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という言葉で教えられています。大人に頑張れ頑張れと言われ続けると子供はプレッシャーに押しつぶされそうになります。逆から言えば私たち大人が気付かぬうちにプレッシャーをかけ続けてしまうことがあるということです。

 

 「とべたらいいな」のうた

飛べたらいいな 大空を 飛べたらいいな

風にのって 飛べたらきっと

聞こえてくるよ 風が運んだおはなしが

地球に生きる生きものの 本当の言葉が聞こえるよ

心の中の余分なものを捨てて 心をつばさに変えて

風にすべてをまかせれば

きっと飛べる きっと飛べる 人も飛べる

やさしさにからだを染めて

飛べたらいいな 大空を  あーーー。


「飛べたらいいな」というのは心が解放されるということです。

「本当の言葉が聞こえるよ」はお釈迦様のさとりの内容のことです。諸行無常であったり、すべてはご縁でつながっているんだよ、といったことです。

「心の中の余分なものを捨てて」というのは三悪道の姿をしている自分に気付いてください。ということです。

※三悪道

【地獄・餓鬼・畜生】

地獄とは瞋恚の心。怒り狂って自分自身を見失い他の人の苦しみの縁となっていく姿。

餓鬼とは貪欲の心。欲望によって自分自身を見失う姿。

畜生とは愚痴の心。物事の正しいことが分からずに自分の思いによって自分自身を見失う姿。

 

 私はこの二つの詩を作った祖父江先生にとてもお世話になりました。

随分と色々なことを教わりましたがある時

「もうそろそろ安っぽい自尊心を捨てようよ」と言われました。

「もうそろそろ」と「捨てようよ」というのがとても柔らかい言葉でした。まだそんなことにこだわっているのか、という言葉なのですが、「捨てなさい!」ではなくて「捨てようよ」という優しい言葉が当時の私にはとても助かりました。あなたの生き方情けないよ。

ということを教わったそんな言葉です。私に無関心であったらこんな言葉はかけません。本当に大事にしてくれているとても有り難いお言葉でした。

 以上

 感想

生の声をお届けしたいと思うほど、楽しく温かい時間でした。途中二つの詩を住職が歌ったりと賑やかな法話でした。

安っぽい自尊心。自尊心は大事な心だと思いますが、多くの場面で他者を見下して優越感を覚えることに使われます。そういう自尊心ではなくて頑張った自分も、少し至らなかった自分も大切な自分として受け止めていく。そんな心なんだなと思いました。

 

 ダイジェスト担当 佐々木健太

平成28年秋季彼岸会法話ダイジェスト 

今回の法話は横浜別院から大滝充弘師にお越しいただきました。

 最近、日本では「私は無宗教です」と口にする人が多いですが、実は多宗教のようにも思います。お正月になれば神社に初詣に行き、春秋のお彼岸、お盆にはお墓参りに行きますし、クリスマスもそうです。口では無宗教と言いながらもこのように私たちは多くの宗教行事に慣れ親しんでいます。色々な宗教行事に触れ、楽しめる。そういった寛容な心こそが世界の宗教摩擦をなくす手助けになっていくかもしれません。ですが反対にいじめや自殺が増え大きな問題として挙げられている現在では、やはり何か信じるもの、生きていく宗となるものが必要であると感じます。

 さて、私たちの多くはお彼岸を迎えるとお墓参りに行きます。ご先祖、お世話になった方のことを思い起こし多くの縁があって今私が生かされているいのちに感謝をする。そういう大切な時間がお彼岸です。

彼岸は彼の岸と書くので向こう側ということ、つまり浄土ということです。ですので浄土の教えを聞いていく大切な時間でもあるのです。浄土は文字通り清らかな場所ということですが、それに対して私たちが住む場所を仏教では娑婆と教えます。あれも欲しい、これも欲しいと欲望が絶えることなく、自分の都合に合わなければ簡単に他人を嫌いになっていく、これを「迷っている」と教えます。そういう迷いの世界に生きる傲慢な私たちが自分自身の現実の姿に気付かされていく。私たちの現実を教える手立てとして浄土の姿を見ていくのです。文句や愚痴も多い私ではあるが多くの人の支えのもと生かされているのだな、ということを確認していく。そういった時間にしていただけたらと思います。

 

ダイジェスト担当 佐々木健太

平成28年 盂蘭盆会 法話ダイジェスト

お盆のお参りです。暑い中をご苦労様です。 
  
さて、こんな暑い中を皆さんこうしてお集まりになって、先ほどは一緒にお勤めをしていただいたわけですが、このお盆の法要にお参りされることの意味を皆さんはどのように考えておられますか。つまり何故ここにきたのか、何のためにお参りをするのか、という、いわばお参りの姿勢ですね。この意味を訪ねていくことは、一番基本的なことでありながら、実は一番大事なところですのでじっくり考えてみましょう。

 まずは、このお盆法要は誰のためにあるのかを明らかにしておかなければなりません。 
これは大変に勘違いをされていることですが、法要は、「亡くなった方のためにある・先祖を供養するためにある」という考え方ですね。これは勘違いです。私たちが、亡くなった方のためにお経を読んであげる。お供え物をしてあげる。施す。という、つまり生きている者から亡くなった者へという方向です。「してあげるもの」としてお盆はある、と考えている。これはやはり勘違いですね。間違いです。
 だって迷っているのは私たちの方ですから。私たち迷うでしょ、悩むでしょ。嫌なことがあったら腹が立つし、悲しいことがあったら泣くでしょ。いろんなことに一喜一憂して振り回されて。そんな私たちが、すでに命を尽くして生を完結していかれた方に対して、何かをしてあげるなんてことはできないですね。 

これに対して親鸞聖人が私たちに示してくださっていることは、まさにこの逆で、死者から生者です。つまり、今現に生きている私たちのために法要はあるということです。すでに亡くなった方から、私たちがお参りされているのだと。これを「願いをかけられている」という言い方をします。私たちが願われているのだと。その願われている声を聞くことが、お盆法要にお参りをする大切な意味なんです。ですから、今日私たちは、先に亡くなられた方に連れられてお参りに来ているのだということが言えるわけです。 

では何を聞かせてもらうのか、何を学ばせていただかなければならないのか。 
それは私たちの、私自身の日頃のあり方です。私たちが日頃どのようにものを見て、考えて、受け止めているかを聞かせていただくのです。おもしろいですね。 
自分がどのようにものを考えているか、なんて自分のことですから簡単にわかっていそうなものですけどね。それをわかっていないのが私たち。何でもわかっている風にしていますけど実は何もわかっていないのが私たち。わかっていないこともわかっていないのが私たちです。 

私たちは一方の見方しか実はできていません。自分の立場から。自我の立場・都合の立場といっていい。自分が最優先ですね。そして、全てのものごとにレッテルを張る。自分の価値観によって、こっちが善で、こっちが悪、というように。 
つまり物事の全体というか、本質を見られていないということです。
 これは全てのことに言えることだと思います。喜・苦、健・病、得・損、富・貧、生・死。 
こっちは良いことで、こっちは悪いこと。分断して物事を捉えようとしてしまうわけです。 
一つの側面しか見ていない。そのものの本質を見ていない。 
それでいて、私たちは何もかもわかったようなつもりでいる。自分が正しいと思い込んでいる。 
そういう私の普段の在り方を知らされるということでしょう。 

私たちが当たり前のように正しいと思っていたこと。わかったつもりになっていたこと。 それが実は、ただ自分の都合で、一方の側面でしか見ていなかった。いい加減な見方しかできていなかった。ということを知らされるのです。 
それは言い方をかえれば、私の価値観が壊される。ということです。 
「私の日頃のあり方」「これが常識だ」と思っていた私の世界がひっくり返る。 
そういう「ひっくり返る瞬間」をいただくということが法要に出会うことの要(かなめ)です。 

ただこれは、ひっくり返るといっても転ぶわけではありません。今までずっと間違った考え方をして、すでに勝手にひっくり返っていた私が、その姿を知らされることで元に戻るんです。人としての正しいあり方に戻ることができるんです。この知らされた瞬間だけ。 
そしてこの一点(瞬間)をもって、「亡き人の声を聞いた」と言えるのではないでしょうか。 

どうか、このお盆にお参りするにあたって、皆さんそれぞれが、仏様から、祖先から、亡き人から、「願われている」ということを大事にしていただいて、普段の自分自身の在り方を問い続けていく歩みをしていただきたいと思います。

三島法遵

平成28年 春季彼岸会 法話ダイジェスト

「はじめに尊敬あり」  法話 遊林寺法務員 佐々木健太

はじめに尊敬あり
私が勉強していた大谷専修学院の前学院長、竹中智秀先生の言葉です。
いつも頭の傍らに置いておきたい大切にしている言葉です。この言葉を思い起こす時、私は自分自身と向き合うことができます。

門徒さんとお話をしているとよくこう聞きます。
「仏教は難しい、私なんかでは到底分かりません。」
確かにお経の文字も一字一字見ていけば難しいですし、お経を注釈した様な本を読んでいても難しいです。
しかし、真宗の教えは私たちの生活の中にあります。なにか特別な事では決してありません。仏教が分かる、分からないということが大切なのではなく南無阿弥陀仏の生活をしていくことが私たちの為すべきことです。仏教は本当は難しくないです。ここが今回お伝えしたい大切なことです。

「仏教というものは要するに自己を顕らかにする。自分の姿を、自己の現実を顕らかにする。それがつまり最も必要とするところであります。」

皆さんが言われる仏教は難しいというのは、正信偈の言葉が難しい、お経は何を言っているのか全然わからない。多分こうだと思います。しかし実は仏教が分からないというのは自分自身が分からないということです。これは大問題だと思いませんか?
仏教では私達が生活している場所は悩みや迷いに満ちた場所であると教えます。先ずはそこの自覚が大切です。自分が何を信じて、何を頼りにし、何を愛して生きているのかを知る。お金、地位、名誉、大切な人。人それぞれ別だと思います。しかしどれを見てもずっとあり続けるものではありません。縁次第でどれも失っていくものです。その中で、怒ったり、傷ついたり、悲しんだり。そういう私たちのことを迷いと教えるのです。

あるテレビ番組を見ました。
それは南米の小さな小さな島、サポサ島という場所に住む家族の話です。サポサ島は小さな島です。私たちからすれば大変不便です。ガスコンロもなければ車もない。食べ物だって輸入食材が多くある日本とは大違いです。そんな島の家族が日本に一週間ホームステイをする、そういう番組でした。サポサの家族は車や高層ビル、日本の文化に驚いていました。初めて見ることや初めて食べる物。特に子供の反応は素直で面白いです。
そんな家族がホームステイ先の家族に連れられてスキー場に出かけました。常夏のサポサの人にとってはもちろん初めての経験です。雪道は歩きずらい様で大変そうです。そんな中でサポサ一家の父はこう言いました。
「ここでは車は走れないんだね。日本も案外不便ですね。」
驚きました。つい数日前はこんな便利な乗り物があって良いな!と言っていたとこがすっかり嘘のようです。便利でありがたいと思っていた心が愚痴の心に変わったのです。
そんな経験をしつつ一家はサポサに帰りました。サポサ一家の父はテレビ局に感想を聞かれこのように答えました。
「日本の○○家の家族に会えたことが一番の思い出。本当に楽しかった。日本はとても便利だけど私はここが良い。だって日本の人は時計ばかり気にしているから。」
サポサは島全体が家族のような人たちです。一家の帰りを島の人全員で温かく迎えていました。

このような内容の番組でした。私は日本は豊かな国だと思っていました。便利で、美味しいものもたくさんあって。でもどうやら大切なことを忘れているようです。それは人と人とのつながりであり、人に対する感謝ではないでしょうか。
私達は日常に感謝しているのか。新しい人と出会えたこと、友達と一緒に食事ができたこと、朝起きて家族がいること。
サポサは裕福な島でもなく、私たちからすればとても不便です。けれど本当に豊かなのはどっちなのか。そんなことを考えさせられました。

人と人とが大切にしあっている。そのままを受け入れお互いに大切にしあうこと。あなたを私は大切にします、という尊敬の心が私たちの心にも本来備わっています。しかし豊かになりすぎた中で、又は当たり前すぎる日常の中で見えづらくなってしまっている。
そのことを改めて思い返させていただき、確認していくあゆみが仏教です。日々の生活の中でしっかりと確かにある仏教です。だから決して難しいことではないですし、自覚をもってあゆんでいかなくてはならない道なのです。

いかがでしょうか。人と人との関係の中で生きている私達ですが、人との関係という一番大切なことを疎かにしている自分が少し見えたのではないでしょうか。感謝の気持ちももちろん持っていますが、感謝の心をすぐに愚痴へと変える心を持っているのが私達です。
「あなたはどこにいるのか。人を大切にしていますか。ご縁を大切にしていますか。」
こんな声に耳を傾けながらこれからも生活していきたいと思います。

平成27年 報恩講 法話ダイジェスト

法話 横浜組西教寺 靍見 美智子師
今回靍見先生にお話をしていただくにあたり、住職が手紙を送ったそうです。その内容に沿ってお話ししてくださいました。手紙の内容は以下のものです。

『最近私は、安心という言葉によってかえって惑わされるようなことを感じています。もちろん人それぞれの五感で使われる安心という言葉ですから、様々な使いようがあるのだと思います。しかし、こうなったら安心できますね、と言われる世間の安心と、どうなっても安心です、と頷けるような仏法の安心には同じ言葉を使っていても大きな隔たりがあるように思います。その中で、門徒も寺族も何かはっきりした安心の歩みが得られずに、うやむやにしてごまかしているように思います。』

安心というのは分かる様であやふやです。不安の一つの要因として【変化】があります。しかし、変化していくのが嫌なのではありません。自分にとって都合の悪い変化が嫌なのです。掴みどころがない安心を求めているのが私たちです。安心をはっきりさせるために、まず不安をはっきりさせたいと思います。
不安は人間だけが持っているものなのか。野生の草食獣は肉食獣に食べられる不安をいつも抱いているのか。そうは見えません。追いかけられたときに恐怖はあるでしょうが私たちの不安と同じようには見えません。では、リスはどうだろうか。冬に向けて食料を地に埋めておくのは冬に食料を得られなくなる不安からだろうか。きっと違います。長い年月の中でリスが培ってきた習性のようなものだと思います。どちらも私たちの不安とは違うように思います。では私たちはどうでしょうか。
増税、年金、老後、歩けなくなること。自分の生活に関わることが不安となるわけです。
お釈迦さまが出家された理由は老病死という変化への不安です。しかし、お釈迦さまは老病死をなくす方法を見つけたのではありません。悩み苦しみのもとを見つけたのです。それは、生きるということは縁を受けて変化し続けるということです。全ては縁で成り立っている。私の身体も一分一秒ごとに変化しているということです。
たまにこういう話を聞きます。
「悪いことなんて何もしてないのにどうしてこんなことに。」確かにそう思うこともあります。しかし、全ては縁の催しなのです。
大切なのは二つ。一つは、病気になることが平気、安心ということではありません。その事実を受け入れる力をいただくのです。こういう縁をいただいている。これが事実なんだと受け入れる力です。
二つ目は、身体がどうなっても、どんな状況であろうと天下唯我独尊であるということを忘れないでください、ということです。
世間では、できることが少なくなっていくと人間としての価値が下がっていくような感じがありますが、決してそうではないということです。いのちがある限り何にもかえることができない尊厳があります。自分を見捨てたり、諦めたりすることはとても失礼なことなのです。
また、私たち人間は二重構造です。生まれてきた時のいのちそのものとしての自分。もう一つは色んな経験をして作り上げられた思いとしての自分です。その経験が生まれてきた時のいのちとしての私を覆ってしまい、いつの間にか初めにあったいのちそのものの願いを忘れてしまっているのが私たちの今の姿です。苦しみや不安は、他でもない私自身の思いから生じているのです。出来ないことは悪いこと。そう思いがちです。しかし、そもそもそれが事実ではないのです。悪いことであると思い、苦しんだり、不安になるのは自分の心の問題なのです。善悪の二つに分けること自体がそもそもの間違いであると仏教は教えます。善い、悪いではなくこれが私なんだと受け止めるところに仏教の安心があるのです。

「努力の結果はついてくる」というのが、私たちの考え方です。しかし、結果が出るのか出ないのかは縁次第なのです。そうにも関わらず、「どう結果が出るか」と気にしてしまうことが私たちの不安なのです。

「人事を尽くして天命を待つ」という言葉がありますが、ある念仏者は次のように言い換えておられます。
「天命に安んじて人事を尽くす」
何事も一生懸命取り組むことは大切です。しかし、その先の結果は私の力、私の計らいではどうにもならないことです。それを思い通りにしたいと思っているのが私たちの間違いです。どんな結果になろうと、それが私に向かってきたご縁だったと受け止めるところに本当の安心があるのではないでしょうか。

最後に全員で仏教讃歌「みほとけは」を合唱し法話が終了しました。

みほとけは まなこをとじて み名よべば さやかにいます わがまえに さやかにいます わがまえに
みほとけは ひとりなげきて み名よべば えみてぞいます わがむねに えみてぞいます わがむねに                             
                                      以上
ダイジェスト担当 佐々木

平成27年 秋季彼岸会 法話ダイジェスト

お彼岸をお迎えするということは、お彼岸の心に出会わせていただくということです。
「彼岸」という言葉にはどういう想いが込められているのか。その願いを聞いて参りましょう。

「彼岸」は「浄土」とも言い表すことができます。またそこは「安心」の世界です。
私自身が「浄土に生まれたい」「安心に包まれて生きていきたい」と願うことが、彼岸の心に出会うことだと言えるでしょう。
さて、では私たちは「浄土に生まれたい」と願っているでしょうか。
もちろん、愛する故人を想う時、また心の安らぎを求める時などは、無意識のうちに浄土を願っている、と言えるわけですが、しかしハッキリと意識して「そのために生きている」とはなかなか言えません。
それは何故かというと、私たちには「自分は迷っている」という自覚がないからです。

「彼岸」に対して「此岸」という言葉があります。
「浄土」に対するならば「穢土」。
また、それは「安心」の世界に対して「迷い」の世界であると言えます。
自分が、穢土に居ることがわかっていれば。また、迷っている存在であることの頷きがあれば。自ずと浄土をのぞみ、安心を求める心も起こってくるはずです。
何事もそうですが、「道に迷った」という自覚があるから地図を開くのです。
「下手くそだ」という自覚があるから、上手な人に教えを請うのです。

私たちが浄土に生まれたいと願っていないということはつまり、私たちは自分が迷っている、心が穢れているということがわかっていないということが言えるわけです。
それを仏教では、「無明」といって、最も根本的な愚かさであると指摘しています。

自分は分かっていないのだ、ということさえ自覚できれば道は自ずと開かれます。
しかしその自覚がないということは、全部わかったつもりになっているわけですから、自分はどこまでも正しいわけです。
反省もしません。わかろうともしません。
とにかく自分が正しいから、間違っているのはお前だ、と自分の意見を強行に押し付ける。押し通す。結果、強行突破、強行採決ということになってしまうのです。

私たちは自分が正しいと思い込み、グルグルと迷い続けていることにも気付かず、間違っているのはお前だ、と意見を押し通して、人を傷つけています。
教えを聞く時、また何かのきっかけを縁として、そんな情けない自分を知らされるとき、「この迷いから離れていきたい」「こんな自分をなんとかしていきたい」というこころが起きてくる。それは新しい歩みが生まれると言ってもいい。
それが「浄土を想う」ということであり、「彼岸の心に出会う」ということなのだと思います。
「彼岸」は、いのちのふるさとでありながら、常に新しく歩み始めることのできる出発点でもあるのです。

三島法遵

平成27年 盂蘭盆会 法話ダイジェスト

今回は横浜別院から佐竹 大樹 師をお招きし、ご法話いただきました。
まず挨拶として、神奈川県の真宗大谷派寺院、ならびにご門徒さんの御懇志を賜り、本願寺横浜別院の本堂修復、庫裡の工事、そして宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要を厳修できたことへの御礼の言葉をいただきました。
今回の750回御遠忌法要が勤まったというのは、讃嘆ということに他なりません。もっと分かりやすく言えば、親鸞聖人をはじめとし、お念仏の教えを今の私たちまで伝えて下さった先人たちへの感謝の心、歓喜の思いを形にして表現したということです。
そして、ありがとうございます。おかげさまです。このような喜びの気持ちを偈(うた)で表現することが正信偈をお勤めするということです。
本願寺横浜別院、宗祖親鸞聖人750回御遠忌法要のテーマとして
《今、いのちがあなたを生きている ~いまひらく ありのままのわたし~》という言葉を掲げました。
今回の話のテーマも《ありのままのわたし》ということでした。しかし、ありのままのわたしというのが難しい。ある先生は、ありのままのわたしとは仏になることです。と、おっしゃったそうです。
私たちは日頃から、自分にとって都合のいいことはこっちにきてほしい、都合の悪いことは遠くへ行け、というような、鬼は外、福は内の心を持っています。また、他人と自分を比べては、優越感を覚えたり、妬んだり、羨んだり、恨んだり、私なんか駄目だ、と思ったりしています。しかし自分自身にふりかかった問題、苦しみは自らで引き受けていくことでしか解決できないのです。嫌なこと、都合の悪いこと、苦しいことから逃げたり目を背けたとしても、必ず同じ問題が起こり続けていくのです。生老病死も逃れられない苦しみの一つです。生まれ生きていく苦しみ、老いていく苦しみ、病気になる苦しみ、そして死ぬ苦しみ。私たちの現実の姿は生老病死すべてから目を背けているのではないでしょうか。

ご恩おもえばみなご恩、わたしはご恩でできました。
ここでいうご恩とはご縁とも言えるかと思います。ご恩、ご縁をいただき続けてきたのが私たちではないでしょうか。良いご縁もあれば、嫌なご縁もあったはずです。しかしそのうちの一つでも欠けていたら今の私はここにはいないのです。いただいたご縁を生き、自分自身が私を担っていく。ご縁のままに生きていく。逃れられない問題、苦しみから目を背けずに自分自身でしっかりと担っていくことが仏道であり、ありのままの姿ではないでしょうか。

是非、お盆という大切な時間を、生きるということをしっかりと考え直すご縁にしていただきたいと思いますし、そのことが生老病死を身をもって示してくれたご先祖への感謝であり、今いのちをいただき生きている私たちの課題ではないでしょうか。

法話を受けての感想
昨年『アナと雪の女王』の主題歌が大ヒットし「ありのままの私」という言葉を多く耳にしました。しかし、世間一般で言う「ありのままの私」と、仏教での「ありのままの私」というのは異なっているような気がしています。
ありのままの私というと、「意のままに行動できる、誰にも自分を妨げられない。自分勝手に生きる。」このように考える人もいるかと思います。自分の思い通りに行動できたら悩んだりしないかもしれませんし、気持ちがいいかも知れません。しかし、思いどおりになる世界なんてどこにもありません。仏の教えとは、何でも思い通りにしようとし、自らのものさしで人や物事を計っている私の自己中心的な在り方を知らせ、打ち破る教えです。
命をいただきこの世に生を受けた時から、世界と共に、人々と共にいるのが私たちの事実です。そういう意味では私と関係がない人など誰一人としていないのです。それが事実にも関わらず、いつの間にか自分の思いを正しいものとして、世間を、そして他者を裁き、個人として生きているのが私たちの間違った姿なのです。
自分にとって良い人もいれば、嫌な人もいます。良いご縁もあれば、嫌なご縁もあります。しかし事実を見てみれば、良い縁も悪い縁も本当はないのです。全てがいただきものなのです。私たちが思うありのままの私とは個人としての私なのですが、実は個人とは私たちの思いの中だけの幻想なのです。仏教が教えるありのままの私とは、「みんないる中での私」です。
しかしながら、全ての人、全てのご縁を大切にすることはとても難しいことです。それほどまでに、私たちの個人としての思いは強いものです。しかし、嫌な人、嫌なご縁とも関係を切らずに、向き合い付き合っていくことはできるのではないでしょうか。嫌な人、嫌なご縁だと決めつけ、私の外の問題として今まで通り過ぎてきたことを、実は私の問題であったと気付かされ、担っていく力を仏の教えからいただくのです。そこに自分の思いでは見えてこなかった新たな出会い、発見があります。それが念仏の御利益です。
個人の思いに縛られ右往左往していた私に仏の教えが届くことで、「私も他人も共にいたんだ。みんな大変な場所を一生懸命生きているんだ。」という個人の思いを超えた世界が広がっていくのです。その世界こそが、私自身も大切にし、他者の苦労も一緒に担い生きていくという、本来のありのままの私たちの姿なのではないかと、思いました。

佐々木

平成27年はなまつり 法話ダイジェスト

今回の遊林寺はなまつりの法話は、岐阜県高山市秋聲寺住職、森 三智丸 先生にお越しいただきました。
約一時間お話していただいた中で、先生が繰り返しおっしゃっていた言葉があります。
「頷く」という言葉です。
毎日の生活をしていくなかでも、いろいろな頷きがあるかと思います。誰かに何かを教えてもらった時の頷き、頷きたくないけれど頷かなくてはならない時の頷き、人の話を聞いている時の頷き、等まだまだたくさんあるかと思います。
しかしここでの頷きとは、
「本当にそうだったなー」というような、仏の教えに触れて気付かされていく頷きのことです。この気付きは自らの意思とかではなく、仏教を聞き尋ねていく中で仏から賜っていくものです。この気付きのことを親鸞聖人は回心とよんでいます。
生老病死をはじめ、様々な苦しみ、悩みを抱えながら生きているのが私たちです。仏教には一切皆苦という言葉があります。自分にとって都合の良いことも、良い条件さえ崩れていけば必然的に苦しみに変わっていってしまう。昨日まで楽しかったことが、次の日には苦しみに変わっていくこともあります。そんな世界を生きているのが私達の現実です。
では一体何を依り所として生きていったら良いのか。苦しみや悩みがなかったら良いなとは思うかもしれませんが、苦しみ、悩みはなくなりません。苦しみをどう引き受けていくか。どう受け入れていくのか。そこに仏教を聞いていくあゆみが開かれていくのです。私自身をかえりみて、自らは迷いの存在であるということに頷いていく。その頷きによって初めて仏の教えが私の上に照らされてくるのです。
あれをやれば幸せになれる、苦しみをなくすために努力をするといった生き方の方が積極的に生きているように思うかもしれませんが、現実として苦しみはなくなりません。それは一時的な安心感や自己逃避です。自らの力で直していけること、改善していけることももちろんありますし、大切なことです。しかしどうにもならないような問題も必ずあります。その問題をどう引き受けていくか。そこから仏道がひらかれていくのです。
「今という現実を捨てないでそこを生きていくことは、人間として最も積極的な生き方だと思います。」と先生がおっしゃった言葉が印象的でした。
『仏説阿弥陀経』のなかに
「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」(しょうしきしょうこう おうしきおうこう しゃくしきしゃっこう びゃくしきびゃっこう)という言葉があります。それぞれの色がそれぞれの光を出して輝いているという浄土の世界を表した言葉ですが、実は私達一人ひとりのことなのです。みんな違ってみんな良い。自分勝手であるとか、偉い、偉くないといった事ではなく、私達一人ひとりが尊い者であるということに頷き、それぞれの光を放っていくこと。
そのことこそ「天上天下唯我独尊」(私は世において一人として尊い。私一人だけが尊いという意味ではなく一人ひとりが尊い者であったということに頷いていく)という言葉なのだな、と改めて気づかせていただいたと同時に、はなまつりを勤める最大の意義であると感じました。

法話 岐阜県高山市秋聲寺住職 森 三智丸先生
ダイジェスト担当 佐々木