平成30年「はなまつり」法話ダイジェスト 『偉くないおしゃかさま』 法話 佐々木健太師

『偉くないおしゃかさま』

法話:佐々木健太師

(佐々木師は平成302月まで遊林寺の法務員であり、現在は『坊さんキッチンen』という飲食店を経営されています。)

 

花まつりと言えば「お釈迦さまの誕生日」です。

 

お釈迦さまの誕生日を通して私たち一人一人の「生まれた意義」を確認していくのがお寺で花まつりが勤まる大きな意味でしょう。

 

自分自身のことで振り返ってみれば私は小さいころから、なぜ生きているのだろうとか、本当の愛情、本当の友達って何だろうとか、そんなことを考えているちょっと変な子だったのかもしれません。

ですが、そういう疑問を問い続け、確認してきた人生が、幸運なことにそういった疑問に対して、しっかりと問い続けていく道(浄土真宗)に出会わせてくれました。

「生まれた意義」を確認していく道が見つかったのです。

 

どのようにしてその道に出会えたのかというと、

「人間困ったら反対側から考えてみろ」という言葉です。

 

例えばお釈迦さまの教えの中に

「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、

「いのちをいただいたこの世界の中で、尊い大事な一人として生きていく」という事です。

この言葉の中で、尊いということを考えみても、曖昧ではっきりしていませんでした。

ですが、反対側から考えてみたところ、

「尊いものとして生きていくには、尊いものとして生きていない自分を知ること」が、

生まれた意義を確認していく近道なのではないかと考えました。

 

「尊いものとして生きていない自分」。

それは「邪見驕慢の生きかたをしている自分である」と、

お釈迦様は教えてくださっています。

「邪見」とは、真理にそむいた見方や考え方のことで、自分の考えに固執する姿です。

「驕慢」とは、自分の知恵や財力を誇り、おごり高ぶる姿です。

この2つの心のあり方は

人の話を素直に聞こうとしないので、どこまでも自分本位の生き方になってしまいます。

正しいことなんて何にもわかってないのにわかったふりをして正義をかざすから、結果、相手の気持ちを知ろうともせず、喧嘩になってしまうのです。

「私もみんなも一緒に大事な人生を歩んでいくのだ」という世界を願いっているのに、願いとは違う世界を自ら作り出しているのです。

これでは「尊いものとして生きていく」ということは難しいのでしょう。

 

浄土真宗は「自分ほどあてにならない者はいない」ということを自覚する教えで、

親鸞聖人の残された和讃には次のようにあります。

「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」

南無阿弥陀仏と声に出しながら教えを喜んで聞いていく人は、南無阿弥陀仏の教えを思い起こすことが日常で、仏のご恩に感謝する心があるという和讃です。

 

本当に欲も深く自分の思いが強い私たちに、

「南無阿弥陀仏の教えを思い起こすことが日常」ということは難しいですけれど、だからこそ

「自分ほどあてにならないものはないことを知って、仏教を聞いていく生活をしてほしい」(憶念)と願われているのです。

「偉くないおしゃかさま」というテーマからわかるように、

お釈迦様だって何でもすぐに分かったわけではなかったようです。

何が正しいことなのかということを、常に確認しながら生き続けた人と言っていいと思うのです。

私たちと同じように悩み、苦しむこともあったでしょう。

ただ群を抜いて憶念の心が身についていたということだと私は思いました。

そう考えると、お釈迦さまも意外と私たちとの違いはなく、近くの存在であるように思えるのではないでしょうか。


ダイジェスト担当 横田晃英

平成28年 はなまつり 法話ダイジェスト

テーマ 本当の愛 ―「天上天下 唯我独尊」―
講師 高山教区西念寺副住職 三島見らん師

本日のテーマは「本当の愛」とは一体どんなものなのかということです。
一人の母親の話を紹介します。
朝日新聞に掲載されていた「こどもに無断で触らないで」という文章。35歳の母親が書いたもので大変大きな反響をよびました。


一歳半の娘と行ったフードコートで知らない高齢男性が、可愛いねと言いながら娘の頭を触ろうとしました。とっさに私は防ごうとし男性は触らないまま離れましたが、別の場所で聞こえるような声で「冗談の分からないお母さんが増えたよな」と言っていました。娘は良く見知らぬ人に触られそうになります。特に高齢の方に多いのですが断りもなく触ろうとするのをやめていただけませんか。知らない人にいきなり触るのは大人ならとんでもない行為なのに子供ならいいと思うのでしょうか。子供も人間です。せめて一声かけてください。そして断られたとしても怒らないでください。どうか子供を想う母親の気持ちを尊重していただけますようお願い申し上げます。


皆さんどう思いますか。難しい問題だと思います。
お寺に来たお年寄りたちにこの話をしたところ意見が二つに分かれました。
一つは、お母さんの言う通り。私たちもこれから気を付けよう。
二つ目は、まあそんなことを言わなくても。子供っていうのは1人で育てるものではなくて、みんなの愛によって育てていくもの。だからお母さんもう少し気を楽にもったらどうかな。

これが本当の愛なのかと言われたらどうでしょう。母親も高齢男性も自分の価値観を押しつけ、自分のものさしが正しいと信じて疑わない姿ではないでしょうか。自分の価値観やものさしを正しいものとして疑いもなく信じている、実はこれが大きな問題なのです。

近頃、「私は無宗教です」と言われる人がよくいます。信じているものが何もない、こう聞こえますが実はそうではありません。宗教とは分かり易く言えば自分の判断基準です。自分の判断基準がない人はいません。つまり自分が判断基準なのです。自分が宗教なのです。ドラえもんで言えばジャイアンです。

自分のものさしでもって、自分の人生経験を間違いないものとして、生活をしている。或いはそれを他者に押し付ける生き方を「我執」といいます。
「あなたの為を思って」という言葉も、実は自分のものさしの押しつけであったりします。それが本当の愛なのか、それとも自分可愛さの自己愛なのか。
また、仏教を聞き自分が正しい見解をあたかも身につけたようにし、仏教のものさしで相手を評価すること。仏教を信じている自分を信じていることを「法執」といいます。
どちらも起こり得る大きな問題です。

いつでもどこでも相手を勝手に判断し、もし自分のものさしに適わなかったら相手を受け入れない。仏教の徳はそういう自分に気付かせていただくことです。
互いのものさしのぶつかり合いは当然起こります。しかしそういう中でも、丁寧に相手の言葉を聞いていく姿勢をいただけるのが仏教なのです。

ダイジェスト 佐々木健太