本年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきお話しいただきました。
その中の一部を編集し紹介いたします。
今日ここ遊林寺でお話をさせていただくにあたり、住職より、お手紙をもらいました。
和讃の
「他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友(しんぬ)ぞと 教主世尊はほめたまふ」(赤本P57)
に魅力を感じています。その和讃をどう感じているのか、
先生のお話を聞かせてくださいということでした。
和讃について語るというのは難しいですが、
私は特に、褒めるという言葉が気になりました。
大人になると中々褒められません、そんな中で、
お釈迦さまが
「あなたは、友達だよ」
と褒めてくれると嬉しい気がします。
先程、「南無阿弥陀仏」(念仏)とみなさん一緒に称えてくれました。
この「南無阿弥陀仏」はあれだけ聞いても、理解するのは難しいです。
言葉を文字の意味でわかろうとすると余計にわからなくなります。
ある先生は、「南無阿弥陀仏いうことは 自分が称えていると思うけど
私たちが仏に願われて称えていること、返答していることが本当の南無阿弥陀仏です。」
と言われましたが、やはりよくわかりません。
先程、お勤めした『正信偈』には念仏の歴史が入っています。
お釈迦様が亡くなり約2500年、
いろんな僧侶が勉強してきた仏教が私たちのところへ届いています。
ここでは親鸞聖人に教えを伝えてくれた、
お釈迦さまと七人の高僧のお話をうたってくれています。
お釈迦さまから大勢の人が苦労して、学んできた仏教の歴史が私に届いているということです。
そういうご縁に出会えているということはすごいことだなと改めて実感しています。
先日、幼稚園で年長の子供たちとお話をしました。
「私達は生きるために、他のいのちをいただきます。私達はいろんないのちをいただいて、元気になります。その元気はどう使う?友だちとケンカして使う?戦争に使う?」と聞きました。
すると子ども達は、
「優しくするのに使うのはどう?お手伝いするのにも使えるよ。」など返答してくれました。
ある先生は優しくするのに使うと言った子に、いつでも優しくできるか聞くと
「できる」と答えました。
すると子供が先生に
「先生はいつでも優しくできるの?」と聞き返していました。
その先生は正直に答えて、
「いつでもじゃなくその時の気分によって優しくできないこともある」
と返答しました。
大人は状況によって、思い通りにならない事実を知っています。
だから「できる」と素直に答えられない難しさがあります。。
そういうことを話していたら、
『意地悪な発表会』をしようとなりました。
自分はこんな意地悪をしていますという感じにそれぞれ言ってくれました。
子ども達はいろいろな返答をしてくれます。
「おもちゃを貸さない、妹をいじめる、悪口を言う、ケンカをする、無理やりお友達のものを取る、お母さんに頼まれても知らん顔する、パパと寝てあげない。」など
子ども達は、そういうことを意地悪と思っているんだなと思いました。
子ども達を見ていて、そういう意地悪な、自分の内面に気付くことが大事だと
改めて考えさせられます。
自分が意地悪をしない立派な人間だと思うと、人を許せなくなってしまいます。
自分の内面に意地悪なことがあると思うと、人を許せるようになります。
許してもらえることがわかると、人に謝れるようになります。
私達は謝らないで言い訳したり、隠したりします。
でも謝れるということは、
間違えを隠さなかったり、ごまかさなくて済むということです。
それが浄土の世界 そのままで大丈夫な世界です。
本当に自分をありのままに居られる世界を作っていきたいなと思います。
ですが、そんな理想的なことはできません。
でもそういう世界があるんだということ。
あるんじゃなくて、作っていくんだという意思があるかどうかということが問われます。
私がこの度の和讃について感じたことは、
お釈迦様が友達と言ってくれるかわからないけれども、
私は、お釈迦様の説かれた法を、友達として生きていたいと思います。
できるかできないかはわかりません。私の勝手な希望です。
ただそう希望しながらも、できない私をお釈迦さまは目をかけて下さるに違いありません。
出来の悪い子ほどかわいいと言いますから、
だからきっとお釈迦さまは私を見続けてくださると思います。
こうやって全くずるい私です。
ずるい私だからこそ「南無阿弥陀仏」を称えます。
素直にできなくてすみません、ごめんなさい。
それでも私に届いてくれてありがとうと応える
「南無阿弥陀仏」がここにあると思います。
ダイジェスト担当 横田晃英