平成30年〔報恩講〕法話ダイジェスト

本年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきお話しいただきました。

その中の一部を編集し紹介いたします。


 

今日ここ遊林寺でお話をさせていただくにあたり、住職より、お手紙をもらいました。

和讃の

「他力の信心うるひとを うやまひおほきによろこべば

 すなはちわが親友(しんぬ)ぞと 教主世尊はほめたまふ」(赤本P57

に魅力を感じています。その和讃をどう感じているのか、

先生のお話を聞かせてくださいということでした。

和讃について語るというのは難しいですが、

私は特に、褒めるという言葉が気になりました。

大人になると中々褒められません、そんな中で、

お釈迦さまが

「あなたは、友達だよ」

と褒めてくれると嬉しい気がします。

 

先程、「南無阿弥陀仏」(念仏)とみなさん一緒に称えてくれました。

この「南無阿弥陀仏」はあれだけ聞いても、理解するのは難しいです。

言葉を文字の意味でわかろうとすると余計にわからなくなります。

ある先生は、「南無阿弥陀仏いうことは 自分が称えていると思うけど

私たちが仏に願われて称えていること、返答していることが本当の南無阿弥陀仏です。」

と言われましたが、やはりよくわかりません。

 

先程、お勤めした『正信偈』には念仏の歴史が入っています。

お釈迦様が亡くなり約2500年、

いろんな僧侶が勉強してきた仏教が私たちのところへ届いています。

 

ここでは親鸞聖人に教えを伝えてくれた、

お釈迦さまと七人の高僧のお話をうたってくれています。

 

お釈迦さまから大勢の人が苦労して、学んできた仏教の歴史が私に届いているということです。

そういうご縁に出会えているということはすごいことだなと改めて実感しています。

 

先日、幼稚園で年長の子供たちとお話をしました。

「私達は生きるために、他のいのちをいただきます。私達はいろんないのちをいただいて、元気になります。その元気はどう使う?友だちとケンカして使う?戦争に使う?」と聞きました。

すると子ども達は、

「優しくするのに使うのはどう?お手伝いするのにも使えるよ。」など返答してくれました。

ある先生は優しくするのに使うと言った子に、いつでも優しくできるか聞くと

「できる」と答えました。

すると子供が先生に

「先生はいつでも優しくできるの?」と聞き返していました。

その先生は正直に答えて、

「いつでもじゃなくその時の気分によって優しくできないこともある」

と返答しました。

大人は状況によって、思い通りにならない事実を知っています。

だから「できる」と素直に答えられない難しさがあります。

 

そういうことを話していたら、

『意地悪な発表会』をしようとなりました。

自分はこんな意地悪をしていますという感じにそれぞれ言ってくれました。

子ども達はいろいろな返答をしてくれます。

「おもちゃを貸さない、妹をいじめる、悪口を言う、ケンカをする、無理やりお友達のものを取る、お母さんに頼まれても知らん顔する、パパと寝てあげない。」など

子ども達は、そういうことを意地悪と思っているんだなと思いました。

 

子ども達を見ていて、そういう意地悪な、自分の内面に気付くことが大事だと

改めて考えさせられます。

自分が意地悪をしない立派な人間だと思うと、人を許せなくなってしまいます。

自分の内面に意地悪なことがあると思うと、人を許せるようになります。

許してもらえることがわかると、人に謝れるようになります。

私達は謝らないで言い訳したり、隠したりします。

でも謝れるということは、

間違えを隠さなかったり、ごまかさなくて済むということです。

それが浄土の世界 そのままで大丈夫な世界です。

本当に自分をありのままに居られる世界を作っていきたいなと思います。

 

ですが、そんな理想的なことはできません。

でもそういう世界があるんだということ。

あるんじゃなくて、作っていくんだという意思があるかどうかということが問われます。

 

私がこの度の和讃について感じたことは、

お釈迦様が友達と言ってくれるかわからないけれども、

私は、お釈迦様の説かれた法を、友達として生きていたいと思います。

できるかできないかはわかりません。私の勝手な希望です。

ただそう希望しながらも、できない私をお釈迦さまは目をかけて下さるに違いありません。

出来の悪い子ほどかわいいと言いますから、

だからきっとお釈迦さまは私を見続けてくださると思います。

 

こうやって全くずるい私です。

ずるい私だからこそ「南無阿弥陀仏」を称えます。

素直にできなくてすみません、ごめんなさい。

それでも私に届いてくれてありがとうと応える

「南無阿弥陀仏」がここにあると思います。


ダイジェスト担当 横田晃英

帰敬式

平成30年11月8日 帰敬式が執り行われました。
 
写真掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。 

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娘さんの立ち合いの元、お2人が新たに遊林寺仏弟子となられました。
おめでとうございます。
今後も一緒に真宗門徒として聞法に励み、真宗の生活を送っていきましょう。


遊林寺では帰敬式受式の相談を随時受け付けています。

帰敬式でお授けする法名は、事前にご相談の時間を設けますので、ご本人のお考えや希望の文字などお聞かせ下さい。
なお、命終の後にやむを得ず法名をお授けすることが多い今日の状況ですが、本来の意味から考えて生前に法名をいただくことが浄土真宗一門の基本と考えています。
どうぞ、ご相談ください。

帰敬式


平成30年10月8日 帰敬式が執り行われました。
 
写真掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。 

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親子お2人が新たに遊林寺仏弟子となられました。
おめでとうございます。

後日、欠席だったお母様からご自宅での勤行の様子の写真を送っていただきました。

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今後も一緒に真宗門徒として聞法に励み、真宗の生活を送っていきましょう。


遊林寺では帰敬式受式の相談を随時受け付けています。

帰敬式でお授けする法名は、事前にご相談の時間を設けますので、ご本人のお考えや希望の文字などお聞かせ下さい。
なお、命終の後にやむを得ず法名をお授けすることが多い今日の状況ですが、本来の意味から考えて生前に法名をいただくことが浄土真宗一門の基本と考えています。
どうぞ、ご相談ください。

帰敬式


平成30年9月15日 帰敬式が執り行われました。
 
写真掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。 
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娘さんの立ち合い元、お1人が新たに遊林寺仏弟子となられました。
おめでとうございます。
今後も一緒に真宗門徒として聞法に励み、真宗の生活を送っていきましょう。


遊林寺では帰敬式受式の相談を随時受け付けています。

帰敬式でお授けする法名は、事前にご相談の時間を設けますので、ご本人のお考えや希望の文字などお聞かせ下さい。
なお、命終の後にやむを得ず法名をお授けすることが多い今日の状況ですが、本来の意味から考えて生前に法名をいただくことが浄土真宗一門の基本と考えています。
どうぞ、ご相談ください。

帰敬式


平成30年5月8日 帰敬式が執り行われました。
 
写真掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。 

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お1人が新たに遊林寺仏弟子となられました。
おめでとうございます。
今後も一緒に真宗門徒として聞法に励み、真宗の生活を送っていきましょう。


遊林寺では帰敬式受式の相談を随時受け付けています。

帰敬式でお授けする法名は、事前にご相談の時間を設けますので、ご本人のお考えや希望の文字などお聞かせ下さい。
なお、命終の後にやむを得ず法名をお授けすることが多い今日の状況ですが、本来の意味から考えて生前に法名をいただくことが浄土真宗一門の基本と考えています。
どうぞ、ご相談ください。

平成30年「はなまつり」法話ダイジェスト 『偉くないおしゃかさま』 法話 佐々木健太師

『偉くないおしゃかさま』

法話:佐々木健太師

(佐々木師は平成302月まで遊林寺の法務員であり、現在は『坊さんキッチンen』という飲食店を経営されています。)

 

花まつりと言えば「お釈迦さまの誕生日」です。

 

お釈迦さまの誕生日を通して私たち一人一人の「生まれた意義」を確認していくのがお寺で花まつりが勤まる大きな意味でしょう。

 

自分自身のことで振り返ってみれば私は小さいころから、なぜ生きているのだろうとか、本当の愛情、本当の友達って何だろうとか、そんなことを考えているちょっと変な子だったのかもしれません。

ですが、そういう疑問を問い続け、確認してきた人生が、幸運なことにそういった疑問に対して、しっかりと問い続けていく道(浄土真宗)に出会わせてくれました。

「生まれた意義」を確認していく道が見つかったのです。

 

どのようにしてその道に出会えたのかというと、

「人間困ったら反対側から考えてみろ」という言葉です。

 

例えばお釈迦さまの教えの中に

「天上天下唯我独尊」という言葉がありますが、

「いのちをいただいたこの世界の中で、尊い大事な一人として生きていく」という事です。

この言葉の中で、尊いということを考えみても、曖昧ではっきりしていませんでした。

ですが、反対側から考えてみたところ、

「尊いものとして生きていくには、尊いものとして生きていない自分を知ること」が、

生まれた意義を確認していく近道なのではないかと考えました。

 

「尊いものとして生きていない自分」。

それは「邪見驕慢の生きかたをしている自分である」と、

お釈迦様は教えてくださっています。

「邪見」とは、真理にそむいた見方や考え方のことで、自分の考えに固執する姿です。

「驕慢」とは、自分の知恵や財力を誇り、おごり高ぶる姿です。

この2つの心のあり方は

人の話を素直に聞こうとしないので、どこまでも自分本位の生き方になってしまいます。

正しいことなんて何にもわかってないのにわかったふりをして正義をかざすから、結果、相手の気持ちを知ろうともせず、喧嘩になってしまうのです。

「私もみんなも一緒に大事な人生を歩んでいくのだ」という世界を願いっているのに、願いとは違う世界を自ら作り出しているのです。

これでは「尊いものとして生きていく」ということは難しいのでしょう。

 

浄土真宗は「自分ほどあてにならない者はいない」ということを自覚する教えで、

親鸞聖人の残された和讃には次のようにあります。

「弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり」

南無阿弥陀仏と声に出しながら教えを喜んで聞いていく人は、南無阿弥陀仏の教えを思い起こすことが日常で、仏のご恩に感謝する心があるという和讃です。

 

本当に欲も深く自分の思いが強い私たちに、

「南無阿弥陀仏の教えを思い起こすことが日常」ということは難しいですけれど、だからこそ

「自分ほどあてにならないものはないことを知って、仏教を聞いていく生活をしてほしい」(憶念)と願われているのです。

「偉くないおしゃかさま」というテーマからわかるように、

お釈迦様だって何でもすぐに分かったわけではなかったようです。

何が正しいことなのかということを、常に確認しながら生き続けた人と言っていいと思うのです。

私たちと同じように悩み、苦しむこともあったでしょう。

ただ群を抜いて憶念の心が身についていたということだと私は思いました。

そう考えると、お釈迦さまも意外と私たちとの違いはなく、近くの存在であるように思えるのではないでしょうか。


ダイジェスト担当 横田晃英

「en」からお知らせ

平成30217日(土)開催の「en」ですが、会場が変更となります。

新会場は「坊さんキッチンen

小田急江ノ島線六会日大前駅東口出て目の前。住所は藤沢市亀井野1-8-15の2階です。

このお店は、遊林寺法務員の佐々木が平成301月にオープンしたお店です。

今後開催の「遊林寺en」もこちらの会場で継続していく予定です。

会費はお食事付きで一人当たり1500円、飲み物代は別途かかります。飲み物の料金は「坊さんキッチンen」のドリンクメニュー通りでお願いします。

要申込となりますのでお越しの方は前日までにこちらまでご連絡ください。

TEL 045-802-8874

メール yuurinji@gmail.com

 

お店のホームページ、ドリンクメニューの確認はこちらからどうぞ。

https://bosankitchen-en.amebaownd.com

 

 

よろしくお願いします。

 

担当 佐々木

平成29年報恩講 法話ダイジェスト

本年の報恩講も西教寺から靍見美智子先生にお越しいただきお話しいただきました。

その中の一部を編集し紹介いたします。


私の夫でもある西教寺の住職が今年8月に「いのちの世界(お浄土)」に還っていきました。亡くなったのが夏休み中の8月でしたので預かり保育の子供たちと一緒に「お誕生」の歌を歌いました。

 

お誕生」

理事長先生のお誕生

天上天下唯我独尊

あなたはあなたで

すばらしい

私は私ですばらしい

生まれてきたこと

おめでとう

 

※理事長先生とは亡くなった住職のことです。普段はその部分を子供の名前に変えて、お誕生日の歌として歌っています。

 

 

亡くなるということは、生まれてきたということでもあります。住職も大事な「いのち」を受け、たくさんの人たちとの関わりがあってその中で色々なことを教わってきました。

では、「いのち」とはいったい何なのでしょう。自分のいのち、という言葉を時々聞くことがありますが「いのち」と「自分」は別物です。

「自分」というのは私たちが頭で考えたものです。生まれてこの方色々なことを経験し良くも悪くも作られてきたものです。

それに対し「いのち」とは、どんな時でも一生懸命生きようとする。たとえ私が「もう生きていたくない」と思っても一生懸命生きようとします。「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と願い続けているはたらきです。

また、「いのち」とは多くのご先祖からつながってきたものです。人は亡くなったら「いのちの世界(お浄土)」へと還ります。それは亡くなったら仏さまとなり、いのちの世界から「がんばれ、そうじゃないでしょ。しっかりしなさい。」と私たちに願い続けるはたらきになるということです。例え独りぼっちだと私が思っても、たくさんの仏さまが私を応援してくれています。それが「いのち」なのです。


住職は亡くなる三日前に「人生、面白かった」「真剣だった」と細い息に力を込めて言いました。

その言葉を後で振り返った時に

「私は死ぬときにああすれば良かった。こうすれば良かった。と思うのだろうな。どうすれば思わないのかな。」と思いました。亡くなってなお私に生きる問いを与えてくれます。自らの死をもって真剣に生きることを考える場を与えてくれました。それを「仏のはたらき」と真宗ではいいます。

私たちは「真剣に取り組む」(住職の「真剣だった」の言葉を受けて)というと、「結果、何を成し遂げたのか」につなげたくなりますが、これは「何をしたか」ではなく、「何を考え、どう生きるか」ということです。

住職は「何を考え、どう生きるか」ということを仏教に聞きたずねながら生きたのだろうと思います。だからこそ、真剣だったと言えたのでしょう。自分のやらなければいけないことを決して自分の都合ではなく仏教の教えをもとに取り組んでいく。そういう大事なことを教えていただきました。

「自分はこう生きたが、あなたは、どうなんだ…」という大事な問いが私に残されました。

 

 

ダイジェスト担当 佐々木健太

特別聞法会「歎異抄」 

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平成29年8月20日 特別聞法会「歎異抄」が開かれました。


 次回の開催は12月24日(日)14:30~ 予定しております。

帰敬式


平成29年6月30日 帰敬式が執り行われました。
 
写真掲載の許可をいただきましたのでご紹介いたします。 
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娘さんご夫婦の付添いのもと、お2人が新たに遊林寺仏弟子となられました。
おめでとうございます。
今後も一緒に真宗門徒として聞法に励み、真宗の生活を送っていきましょう。


遊林寺では帰敬式受式の相談を随時受け付けています。

帰敬式でお授けする法名は、事前にご相談の時間を設けますので、ご本人のお考えや希望の文字などお聞かせ下さい。
なお、命終の後にやむを得ず法名をお授けすることが多い今日の状況ですが、本来の意味から考えて生前に法名をいただくことが浄土真宗一門の基本と考えています。
どうぞ、ご相談ください。